総まとめ【長嶋茂雄】の名言26選で仕事や生活での悩み解消!

最終更新日 2023年6月7日

目次


1、はじめに


2、名言集


3、おわりに


4、関連記事

1、はじめに


【長嶋茂雄】の名言を「26」集めました。

【長嶋茂雄】が日本プロ野球の
「スーパースター」であり続けるための
「努力、苦悩」のごく一部ですが、
垣間見ることができます。

仕事や生活で「悩み」がある時には、
「悩み」解決のヒントが!
疲れた時には元気になる!
などの「名言」があります。

ぜひ参考に読んでみて下さい。







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2、名言集


「努力は人が見ていないところで
するものだ努力を積み重ねると
人に見えるほどの結果が出る」



天才と呼ばれる
【長嶋茂雄】なので、
努力とはほど遠い人だと
思われていましたが、
実際は「練習の虫」と言われるほどの
努力入団当初からでしていました。
それは【長嶋茂雄】には、
練習を人に見られたくない」
というポリシーがあったからです。



努力は人が見ていない所での
詳細はこちらからどうぞ






「自分を磨いてプロ野球を発展させる」



この「名言」は、
【長嶋茂雄】が口に出して言った
ものではなく、「読売巨人軍」
入団当初から考えていた事を
日々自分を磨く事により「実現」しました。



自分を磨いてプロ野球を発展させるの
詳細はこちらからどうぞ






「書物理論だけでは、
本来秘めている先天的なもの、
ひらめきといったものを生かせない。
それが、皮膚理論という、
血となり肉とならなければ
だめだと思います。」



株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優 
「長嶋茂雄 語録」より引用



この「名言」
1972年のキャンプ直前の言葉です。



書物理論・・・皮膚理論・・・
の詳細はこちらからどうぞ






「我が巨人軍は永久に不滅です」



この「名言」は、1974年(昭和49年)10月14日
「長嶋茂雄・引退セレモニー」
での言葉です。



我が巨人軍は永久に不滅です
の詳細はこちらからどうぞ






「野球で生活して行く上に置いて
ハッピーという言葉はない。
毎日が苦悩の世界です。」



河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
「長嶋茂雄 語録」より引用



この「名言」1974年
「伝説の引退試合」から
1週間後に発言されました。



野球で生活していく上において
ハッピーと言う言葉はない・・
の詳細はこちらからどうぞ






「国民的行事」



この「名言」
1994年(平成6年)10月8日
ナゴヤ球場で、
中日ドラゴンズ対読売巨人軍の
試合がありました。
公式戦の最終試合で
同率の両チームが対戦し、
勝った方が優勝という試合の事を
当時の巨人軍・監督【長嶋茂雄】
名付けました。



国民的行事の詳細は
こちらからどうぞ






「メークドラマ」



1995年(平成7年)
発信された【長嶋茂雄】の造語 で
選手達のやる気を起こし、
チームが一丸となり、
「大逆転・優勝」を目指すために
言った「名言」です。



メークドラマの詳細は
こちらからどうぞ






「スランプになっても落ち込まない」



【長嶋茂雄】は「自分のプレー」に絶対的な
自信を持っていました。

それは「普段の練習」により
裏付けられた自信です。



スランプになっても落ち込まないの
詳細はこちらからどうぞ






【1000日計画】



1992年のドラフト会議で
【長嶋茂雄】【松井秀喜】を引き当てた時から
始まった【松井秀喜】「日本プロ野球界の4番」
1000日(約3年)でするために
使った【長嶋茂雄】「名言」です。



松井秀喜1000日計画の
詳細はこちらからどうぞ




「失敗は成功のマザー」



この言葉は、第一次長嶋政権の
2年目1976年(昭和51年)の言葉です。

【長嶋茂雄】
数ある名言(迷言)の中でも
いかにも【長嶋茂雄】らしいユニークな
「英語」を使った造語です 。



失敗は成功のマザーの詳細は
こちらからどうぞ






「人間力を高めろ!」



【長嶋茂雄】はプロ野球人として
技術力を磨くと共に
「人間力を高める」指導を
してきました。

特に「松井秀喜」には
「素振り」指導だけでなく、
「人間力を高める」
指導を徹底していました。



人間力を高めろ!の詳細は
こちらからどうぞ






「選手ならともかく、
監督とかコーチという管理職は
野球ばかでは務まらない。」



河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
「長嶋茂雄 語録」より引用



この「名言」1982年の言葉です。
1980年に「読売巨人軍」の監督を解任され
浪人2年目の言葉です。



選手ならともかく管理職は野球ばかでは
務まらないの詳細はこちらからどうぞ






「 終身打率にこだわっていません。
どこまで元気にやれるか
それだけです。



株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優 
「長嶋茂雄 語録」より引用



この言葉は【長嶋茂雄】が引退する前年の
1973年のシーズン終了後の言葉です。



終身打率打率にはこだわっていません・・
の詳細はこちらからどうぞ






「悔いを残す野球人生で終わりたくない
執念の燃えカスが残っている限り
最後の最後のカスまで
ポッポと燃えているうちは
この一か八かの勝負の世界に挑戦する」



株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優 
「長嶋茂雄 語録」より引用



この「名言」は、
1973年のキャンプ入り直前の
言葉です。



悔いを残す野球人生で終わりたくない・・
の詳細はこちらからどうぞ






「私のモットーは、誠のある非情だ」



株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
「長嶋茂雄 語録」より引用

この「名言」1975年の正月の言葉です。



私のモットーは、誠のある非情だ
の詳細はこちらからどうぞ






「負けるのは監督が悪い」


この「名言」1975年8月
終わり頃のインタビューで言った
「名言」です。



負けるのは監督が悪いの詳細は
こちらからどうぞ






「スランプを何度も自分なりに
克服してきた」



この名言は1974年(昭和49年)の
シーズン途中で新聞に
自ら書いた手記の一部です。



スランプを何度も自分なりに
克服してきたはこちらからどうぞ






「もうひとりの長嶋をつくりたい」



この「名言」は、
1980年9月初め頃の言葉です。



もうひとりの長嶋をつくりたい
の詳細はこちらからどうぞ






「勝てば官軍、
負ければ賊軍なんです」



この言葉は、
1979年の新年早々の言葉です。



勝てば官軍負ければ賊軍の詳細は
こちらからどうぞ






「ファンに感謝する真心があれば、
体力の限界まで力を出すことが

できるはずだ」



この「名言」は、1971年12月の終わり頃の
言葉です。



ファンに感謝する真心があれば、
体力の限界まで力を出すことが
できるはずだの詳細はこちらからどうぞ






「35,36歳からが本当の
自分との戦いだ!」



この「名言」は、1972年11月頃の言葉で、
36歳の時です。



35,36からが本当の自分との戦いだ
の詳細はこちらからどうぞ






「乗れる状態に自分を持っていける
選手は超一流だと思う」



この「名言」は、
1977年1月の初め頃の言葉です 。



乗れる状態に自分を持っていける選手は
超一流だと思うの詳細はこちらからどうぞ





「1+1で3,4を望んではいかん、
1+1は2でいいんだ」



この「名言」は、
1980年9月初め頃の言葉です。



1+1で3,4を望んではいかん、
1+1は2でいいんだは
こちらからどうぞ






「陰の苦労とか苦悩を決して
人前で見せるべきでない」


この「名言」
1973年のキャンプ直前の言葉です。



陰の苦労とか苦悩を決して人前で
見せるべきではないの詳細は
こちらからどうぞ






「ぼくは順調すぎた、
脚光ばかり当たり裏街道を知らなかった」



この「名言」は、
1973年の終盤「デッドボール」で
左手薬指を骨折し、欠場中の時の言葉です。



ぼくは順調すぎた、
脚光ばかり当たり裏街道を知らなかった
の詳細はこちらからどうぞ






「攻めに徹しての365日だった」



この「名言」は、1976年10月【長嶋茂雄】監督として、
初めてセ・リーグ優勝をした時の
言葉です。



攻めに徹しての365日だったの詳細は
こちらからどうぞ




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3、おわりに

いかがでしたか?


【長嶋茂雄】の26の
「名言」を紹介しました。


いずれも【長嶋茂雄】独特の
言い回しですが、
何となく理解できる
意味深い「名言」です。


何かあった時は、ぜひ読んで頂き
問題解決の糸口にして頂ければ幸いです。


最後まで読んで頂きありがとうございます。

4、関連記事



(長嶋茂雄・プロフフィール、選手、
監督成績はこちらどうぞ)


(長嶋茂雄・迷言「あ行~た行」は
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(長嶋茂雄・迷言「な行~わ行」は
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長嶋茂雄の名言【攻めに徹しての365日だった】を話題のタネに!

最終更新日 2023年9月7日


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1、はじめに

攻めに徹しての365日だった



この言葉は、
1976年10月【長嶋茂雄】監督として、
初めてセ・リーグ優勝をした時の
「名言」です。


前年、球団史上初の最下位という
不名誉な結果に終わり、
選手起用や采配に批判が渦巻く中、
シーズンオフには、積極的に補強し
優勝をするための戦力を整えました。


その結果、セ・リーグ優勝をしました。


では、どんなシーズンだったのか
振り返ります。

野球
シーズンオフには、積極的に補強し
優勝をするための戦力を整えました

2、1976年の戦い方


1976年の年頭に当たって
【長嶋茂雄】は、
「努力してますと練習を
売り物にしている選手は、
プロではない」と発言しています。


この言葉から、何が何でも
「優勝」しなければいけないという決意で
臨む厳しいシーズンで
あることがわかります。


また、補強の中でも
「張本勲」
「加藤初」といった
大物を補強し、
守備のコンバートを積極的に行い
万全の体制でシーズンに入りました。


5月に14連勝、
8月に13連勝と圧倒的の強さでしたが、
9月に入ると阪神が激しく追い上げ、
あわや「マジック」が
点灯するところまでになり、
優勝争いが「風雲急を告げ」ました。


結局は、
最終戦に巨人が勝ち優勝を決めました。


終盤に苦戦したものの1年を通して
積極的に戦ったことによる優勝でした。


その表れとして、積極的に補強した
移籍の「加藤初」が15勝4敗。


同じく移籍の「張本勲」が
打率.355、ホームラン22本、打点93点。
と期待通りに活躍しました。


また去年までほとんど実績のなかった
「小林繁」が18勝8敗。


前年打たれても使い続けた
「新浦寿夫」が11勝11敗5セーブ。


と若手投手の台頭もありました。





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3、歓喜の優勝


攻め続けて優勝した1976年でしたが、
【長嶋茂雄】の采配面では、
後に「迷言」と言われる
「自分は顔が白いので、
心の動揺が顔に出て
相手に読まれやすいので、
日光浴をして黒くなろうと
思っていた」との発言がありました。


1976年は、攻め続けたと言うだけあって、
チーム打率が.280もあり、
セ・リーグの1位でした。


また、攻め続けることにより
チームが一丸となり、優勝しました。


それがよくわかるのが
【長嶋茂雄】の胴上げです。


巨人ナインが心の底から笑っているのが
よくわかりました。


この時のことを【長嶋茂雄】は、
「もう無茶苦茶でした」
「みるみる間に自分の体が
宙に舞っていました」
「胴上げされているときは、
それが自分なのか、
他人なのか全くわからない位でした」と
話していました。


攻めに徹した結果の歓喜の
胴上げでした。

長嶋
「胴上げされているときは、
それが自分なのか、
他人なのか全くわからない位でした」

4、おわりに


「攻めに徹しての365日だった」は、
【長嶋茂雄】
優勝しなければいけないと言う
悲壮感を持って戦い続け、
その結果優勝することができた
安堵感を感じます。


この攻めに徹する姿勢は1977年には、
2位に15ゲーム差をつけての
優勝につながりました。


私達が仕事や生活していく上でも
同じことが言えます。


仕事や生活をしていく上で、
それぞれに「役割」があります。


一般的には「役割」を
果たせばよいのですが、
その「役割」を果たす上で、
もう一歩進んで改善意欲を持って
取り組む姿勢が必要です。


攻め=改善意欲と考え
365日過ごしたいものです。


最後まで読んで頂き有難うございます。


参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優


長嶋茂雄語録参考資料:ウィキペディア




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長嶋茂雄の名言「ぼくは順調すぎた脚光ばかり当たり裏街道を知らなかった」

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最終更新日 2023年9月7日

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1、はじめに


ぼくは順調すぎた、
脚光ばかり当たり裏街道を
知らなかった


この「名言」は、
1973年の終盤「デッドボール」で
左手薬指を骨折し、
欠場中の時の言葉です。


「王貞治」の三冠王がほぼ確定した時に、
「王貞治」と自分を比較した時の言葉です。


「王貞治」は、
1971年、1972年と2年連続で3割を
切りました。


その時の「王貞治」の試練を
近くで見ていたことから出た言葉です。


このことから「王貞治」を見習って、
スタートからの出直しが決意ができ、
感謝したと語っていました。


この「名言」が出た背景には、
1973年の成績が関係しているので、
振り返ってみます。

プロ野球
1973年の終盤「デッドボール」で
左手薬指を骨折し、
欠場中の時の言葉です

2、1973年の巨人と長嶋茂雄


(1)1973年の巨人


1973年の巨人は、
結果的に9年連続で日本一になりましたが、
セ・リーグ優勝は、
阪神との最終戦で辛うじて勝って
決めるという状況でした。


投打の主力が不振でしたが、
「王貞治」の頑張りでの、
セ・リーグ制覇でした。



(2)1973年の長嶋茂雄


打撃コーチ兼任での
シーズン2年目でした。


ホームラン20本、打点76と
共に少なく、
特に打率は、
2年連続で3割を打てずに.269に
終わりました。


打撃不振の原因の一つに
体力の低下を感じていたとも取れる
発言がありました。


それは
「自分がここまで選手として
プレーできたのは、
ファンの拍手という後押しが
あったからで、
それがなければ、打てなかった」と
語ったことです。


また
「ヒットを打つのが生きがいになった、
それがバットに賭ける夢というものだ」
とも語り、
打撃不振のこの年の苦悩が伺えます。




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3、名言の背景


この年は周りから、
「体力の限界、引退すべきだ、
打てない【長嶋茂雄】を見たくない」
との声が上がっていました。


それに対して
「デッドボール」による負傷欠場中に、
正に【長嶋茂雄】の苦悩を
表す発言がありました。


それは「自分なりに悩んだ結果、
打撃不振の原因は
技術力の不足だった。


周りから入ってくる雑音に
悩んでも自分のためにならないが、
技術的問題で悩むのは
いつか必ず報われる。


今年の不調も年齢が原因ではない。
あくまでも自分の技術的な問題です。


16年もプロ野球の世界に
身をおいているが、
いまだに打てない時は、
苦しみ悩んで、
打撃フォームを崩す。


「その繰り返しでずっと
プレーしてきた」という発言でした。


この年の苦悩は、
選手生活の中で最大の苦悩で
あったのでしょう。


だからこそ

「ぼくは順調すぎた、
脚光ばかり当たり裏街道を知らなかった」

という「名言」を発言し、
まだまだ現役として
「ファンを喜ばす野球」を
する決意表明をしたのではないでしょうか。

野球
「自分がここまで選手として
プレーできたのは、
ファンの拍手という後押しが
あったから


4、おわりに


「ぼくは順調すぎた、
脚光ばかり当たり裏街道を知らなかった」


この「名言」の通り
過去の【長嶋茂雄】は、
一見「順風満帆」のように
見えます。


しかし、必ずしもそうでは
ありませんでした。


「陰の苦労とか苦悩を
決して人前で見せるべきでない」


と言う自らの主義で、
人知れず練習をして問題の
克服をしてきました。


特にバッティング面では、
「練習の積み重ねよる
過去の成功体験が
自然と自分の体に備わる」と
言う持論を持っていました。


このように、
過去の苦悩は人前に表れる前に
自分で解決できていましたが、
この「名言」のように人前で
発言したと言うことは、
相当の苦悩だったのでしょう。


そして、このようなことが積もり積もって
1974年の「現役引退」
へとつながりました。


私達の周りでも、
仕事や生活していく上で、
一見順調に進んでいるように
見える人がいますが、
陰では悩み、
それを克服するための
努力を怠らない人です。


もし、自分は順調でないと悩んだ時は、

「ぼくは順調すぎた、
脚光ばかり当たり裏街道を知らなかった」

を思い出してください。



最後まで読んで頂き有難うございます。


参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録


参考資料:ウィキペディア






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長嶋茂雄の名言【陰の苦労とか苦悩を決して人前で見せるべきでない】

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1、はじめに


陰の苦労とか苦悩を決して
人前で見せるべきでない

は、
1973年のキャンプ直前の「名言」です。


1972年のシーズンを振り返り、
この言葉の意味を探りたいと思います。


野球
【長嶋茂雄】
「王貞治」を中心とした
打撃陣の活躍で、
投手陣をカバーする形で
8連覇を達成しました

2、1972年の巨人・長嶋茂雄


1972年の【長嶋茂雄】は、
打撃コーチ兼任として
シーズンに入りました。


個人成績は、打率が.266と
低かったのですが、
27ホームラン、92打点と
兼任コーチとして
恥ずかしくない結果でした。


チームは【長嶋茂雄】
「王貞治」を中心とした
打撃陣の活躍で、
投手陣をカバーする形で
8連覇を達成しました。


【長嶋茂雄】はこのシーズンに
活躍できたとはいえ、
自分の打球が
正面を突いてしまうという
悩みがありました。


今までは、凡打のような打球でも
野手の間を抜けていたものが、
この年位から、
捉えたたと思った打球でも
野手の間を抜けなくなることが
出始めたと言っていました。


本人は、
打球への執念が足りなかったと
言っていましたが、
実際には、
体力の衰えを感じ始めていたのでは
ないでしょうか。



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3、1973年シーズン前の決意


1967年(昭和42年)から
キャンプ前の
恒例となっている
伊豆・大仁(おおひと)の
山籠もりを前にその大切さを
次のように語っていました。


周りからは、
「高いお金を払ってまでも
伊豆・大仁まで行って
トレーニングしなくても、
近所の公園やグランドでも
できるので、行く必要はない」と
言う人がいます。


しかし、自分には必要で、
シーズン中にファンに喜んでもらうために、
絶対に欠かすことができない
大切な時間と場所と
語っていました。


1973年もファンにいいプレーを
見てもらうために、
陰の努力を表に絶対に出さないという
【長嶋茂雄】
姿勢を貫く決意で山籠もりを
スタートさせました。

プロ野球
「プロ野球選手は、
プレーを見てもらわなければ、
意味がない野球

4、長嶋茂雄のプレー姿勢


【長嶋茂雄】は常々
「プロ野球選手は、
プレーを見てもらわなければ、
意味がないので、
見てもらうためには
力をつけなければいけません」
と言っていました。


そのために「正しい努力」をして
ファンの記憶に残るようないいプレーが
したい」と言っていました。


何故ならば【長嶋茂雄】が少年時代に見た
「藤村富美男」や「大下弘」の
プレーの記憶が、
鮮明に残っていたからです。


見せる立場になった今、
特に少年ファンに
鮮明に記憶に残るようなプレーが
したいという思いから、
そのことばかりを考えて
プレーをしました。


例えそれが
「スタンドプレー」と言われても、
いっこうにかまわないと
言っていました。


そのために

「陰の苦労とか苦悩を
決して人前で見せるべきでない」

と考え練習していました。



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5、おわりに


【長嶋茂雄】は「オーバーアクション」
と言われていました。


三振をするにしても、
ヘルメットを飛ばすくらいの
アクション。


エラーをしたときも、
派手なアクションをしたからです。


本人は、「オーバーアクション」と
言われることを
気にしていなかったと言われています。


ファンを喜ばすために、
「ヘルメットの飛ばし方」や
「エラーをした時」の
アクションの練習を
陰でしていました。


そこまでの苦労をして練習していたので、
ファンに感動を与える選手
だったのでしょう。


私達もこの名言のように、
目に見えない努力をして、
仕事や生活に生かしたいたいものです。


最後まで読んで頂き有難うございます。


参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
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長嶋茂雄語録


参考資料:ウィキペディア

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長嶋茂雄の名言「1+1で3,4を望んではいかん、1+1は2でいいんだ」!

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最終更新日 2023年9月7日



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1、はじめに


1+1で3,4を望んではいかん、
1+1は2でいいんだ

は、
1980年9月初め頃の「名言」です。


この年の長嶋・巨人は、
3位から5位を行ったり来たりで、
最終順位は3位でした。


この言葉は、
どんな心境から出たのでしょうか。


1980年を振り返りたいと思います。

野球
「地獄の伊東キャンプ」に参加した
「江川卓」「西本聖」「定岡正二」の
活躍




2、1980年の巨人


この年は、
波乱を含んだ年のスタートに
なりました。


「張本勲」が前年の不振を理由に、
この年の初め、
ロッテにトレードされました。


その時、巨人のフロント批判とも取れる
「巨人は間違った方向に進んでいる」と
発言をして、
波乱を巻き起こしました。


また【長嶋茂雄】
参謀役として期待された「青田昇」が、
週刊誌の記者に暴言を吐いたことが
問題になり、
開幕前に辞任に追い込まれました。


そんな状況で開幕しましたが、
いきなり開幕3連敗してしまい、
辛うじて、Aクラス争いをするという
状況でした。


Aクラス争いができたのは、
投手陣の踏ん張りがあったからで、
特に前年
「地獄の伊東キャンプ」に参加した
「江川卓」「西本聖」「定岡正二」の
活躍があったからです。


打撃陣は「張本勲」の抜けた穴を
埋めることができず、
主砲の「王貞治」も不調で、
チーム打率もリーグ最下位でした。


その結果、
3位がやっとの成績に終わりました。






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3、名言の背景


この年は、サード「中畑清」
キャッチャー「山倉和博」が、
レギュラーとして定着したものの、
他のポジションは、
ベテランや外国人に
頼らなければいけませんでした。


若手が育たない原因の一つに
「張本勲」が、
トレードに出された時に
「コーチ陣が保身に走り、
フロントの方ばかりを見ている」
と言う発言がありましたが、
この発言から、コーチ陣が【長嶋茂雄】
協力的でなかったことがわかります。


またこの年は、巨人OB、マスコミ、
さらには巨人ファンまでが、
【長嶋茂雄】批判を行うようになり、
自分が考えている野球の
「勝ちながら、若手を育てる」ことが、
できなかったのではないでしょうか。


そんなジレンマの中、
若手を育てるためには
根気よく丁寧に教え、急成長し、
すぐに成果が上がることを期待しないで、
選手を指導しなければいけない
という考えから、

「1+1で3,4を望んではいかん、
1+1は2でいいんだ」

と言う「名言」がでたのでは
ないでしょうか。

長嶋
この年は、サード「中畑清」
キャッチャー「山倉和博」が、
レギュラーとして定着

4、おわりに


「1+1で3,4を望んではいかん、
1+1は2でいいんだ」

は、
当時の【長嶋茂雄】がおかれた
立場を考えると、
フロントやコーチに対しての批判とも
受け取れますが、
【長嶋茂雄】に限っては、
そんなことはないと思います。


この言葉は、
仕事をしていく上でも当てはまります。


若手や後輩に良い指導していくのは、
指導者や先輩としての責務です。


良い指導とは、相手のことを思い、
何を教えたらよいのかを
考えて指導することです。


指導方法の例えとして
よく使われている言葉に、
「魚を与えるよりも、魚の獲り方を教える」
があります。


この意味は、
「魚を相手に与えれば、
一時的飢えはしのげるが
それで終わり」

しかし、
「魚の獲り方を教えれば、
飢える心配がない」
ということになります。


現在、指導する立場の人や、
今後、指導する立場の人は、
【長嶋茂雄】「名言」
このことを、
よく理解して欲しいと思います。


最後まで読んで頂き有難うございます。


参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録


参考資料:ウィキペディア



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長嶋茂雄の名言「乗れる状態に持っていける選手は超一流だと思う」

最終更新日 2023年9月7日


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1、はじめに


乗れる状態に自分を持っていける
選手は超一流だと思う

この言葉は、
1977年1月の初め頃の名言です。


前年の1976年は、
最下位から一転セ・リーグ優勝を
果たしましたが、
日本シリーズでは阪急に敗れ、
決意も新たに日本一を
目指すシーズンでした。


そのような時の発言で、
背景にはどのような事があったのか、
1976年を振り返り真相に
迫りたいと思います。

長嶋
1976年は、
最下位から一転セ・リーグ優勝を
果たしました



2、1976年の巨人


1976年の巨人は、
前年、球団設立以来初の
最下位という結果に終わりました。


その反省から、積極的に補強をしました。


打では「張本勲」
投では「加藤初」といった
主力選手を獲得しました。


「張本勲」がレフトを守るため、
前年までレフトを守っていた
「高田繁」をサードにコンバートし、
サードを守っていた
「デーブ・ジョンソン」が
守り慣れたセカンドに回る
という適材適所で
シーズンに臨むことができました。


シーズンのスタートは出遅れましたが、
5月以降首位をキープし続けました。


しかし終盤には、阪神の猛追があり、
最終戦に勝って優勝を決めました。


投手では「小林繁」が
初の二けた勝利の18勝、

前年批判を浴びながらも
我慢して使い続けた「新浦寿夫」が、
初の二けた勝利の11勝、

移籍の「加藤初」は期待通りの15勝、
エースの堀内も14勝と
好成績を収めました。


打者では移籍の「張本勲」が打率.355、
「王貞治」は前年ワンマークだったのが
「張本勲」の加入でツーマークとなり、
49ホームラン、123打点で
二冠王になりました。


コンバート組の「高田繁」
「デーブ・ジョンソン」も
好成績を収めました。







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3、名言の背景


1976年はセ・リーグ優勝をしたものの、
打撃陣での若手の台頭が
ありませんでした。


それゆえに【長嶋茂雄】と同じように、
「自分を乗せて」
結果を残すような選手を
育てることの必要性を感じたのでは
ないでしょうか。


その候補として、
前年のドラフト会議で、
健康に不安があり周囲が反対するのを
押し切って
【長嶋茂雄】が指名した
「篠塚利夫」がいました。


彼は高校時代は、4番バッターでしたが、
【長嶋茂雄】がその長所を見抜き、
2番打者に決めました。


そのことにより、
ホームランを狙わず、ヒットを打つ事に
専念したため、
後に「安打製造機」と言われるように
なりました。


また、当時大学日本一の駒澤大学で
「駒澤三羽ガラス」
といわれた
「中畑清」「平田薫」「二宮至」の
3人の獲得です。


3人の獲得を前に【長嶋茂雄】自身が
駒澤大学の「太田誠監督」のもとに出向き、
頭を下げ頼み込むほどの
力の入れようでした。


その中でも「中畑清」は
【長嶋茂雄】と同じでタイプで
明るく、前向きの性格で
チャンスに燃えるタイプ
といったところを見抜いて、
試合に使っていたと言われていました。


彼らを「勝ちながら育てる」ことの
決意の表れが、



乗れる状態に自分を持っていける
選手は超一流だと思う

ではないでしょうか。

長嶋
「自分を乗せて」
結果を残すような選手を
育てることの必要性を感じたのでは
ないでしょうか




4、おわりに


乗れる状態に自分を持っていける
選手は超一流だと思う

は、

「ファンに魅せて喜ばす野球」を
するために、人知れず練習し、
自分を乗せて結果を残した
【長嶋茂雄】そのものです。


また、監督としての采配や
選手起用に対して、
達成感があるようするために
自分自身を乗せて、
走り続けたいという決意の表れでは
ないでしょうか。


私達の仕事上で当てはめると、
「乗れる状態」=「自己管理」
ではないでしょうか。


「自己管理」ができてないための不調は、
チームワークにも支障がきたします。


当然のことですが、
仕事はひとりでは完結しません。


だからこそ「自己管理」をしっかりして、
チーム全員が決められたルールを守り、
お互い理解し合いながら
仕事をしていきたいものです。



最後まで読んで頂き有難うございます。



参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録


参考資料:ウィキペディア

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長嶋茂雄の迷言【思わず笑ってしまう「な行~わ行」で始まる言葉】

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最終更新日 2024年2月28日




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1、はじめに


【長嶋茂雄】「迷言」第二弾です。


今回は
な行~わ行までを紹介します。


前回同様に笑って下さい。






野球
長嶋茂雄迷言(な~わ)

2、迷言(な行~わ行)


(1)な行

な・ながしましげるです。

補足:一時期、自分のことを茂雄ではなく、
しげると思っていました。


な・「ナイスホームラン!」

補足:巨人の監督時代、江川卓からホームランを打った
阪神・掛布雅之にベンチで思わず言ってしまった。
その時、堀内コーチが一言「敵です」



に・二岡が迷惑をかけまして。

補足:上原浩二が交通事故を起こしたときに、
二岡智宏と上原を間違えていた。



ぬ・盗むんだよ、投手の息を。

補足:ホームランを打つ極意をピッチャーの呼吸に
自分の呼吸を合わせることをこのように言いました。



ね・寝たのは午前2時、起きたのは午前5時、
5時間も寝れば大丈夫ですよ。

補足:計算違い



の・農林1号、今度は西武のコーチですか。

補足:農林1号とは、農作物の登録番号で、
ずんぐりした黒江透修をこのように呼びました。


(2)は行

は・「はーい ゴリラ」

補足:松井秀喜は「ゴジラ」と呼ばれるのが嫌いでした。
初めてのキャンプにこう呼ばれ「ゴジラ」のほうがマシ
と思い、「ゴジラ」と呼ばれても嫌でなくなりました。


は・初めて還暦を迎えさせて頂きまして、
ましてや年男と言うこともありまして。

補足:誰もが初めてなのに、ということから

【長嶋茂雄】なら2回目の「還暦」 (大還暦)
まで生きるだろうと
評判になりました。



ひ・左のサースポウが重要ですね。

補足:キャンプに課題は?と聞かれて。


ぴ・ピッチャー阿波口!

補足:阿波野、川口は戸惑いました。



ふ・不思議なことに私の誕生日はなぜか、
毎年キャンプ中です。

補足:誕生日が2月20日だから当たり前です。



へ・ヘイ!カール!シーユーアゲイン!

補足:カール・ルイスに向かって、
また会ったなと言ったつもりです。


へ・へー、でいつなんですか?

ファンに「長嶋」と誕生日が同じと言われて。



ほ・ほんの一端のさわりです。

補足:オリンピックのレポーターとして、
ダイジェストを紹介する時に。





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(3)ま行

ま・まな板の鯉に乗った心境で、
お話ししております。

補足:講演会でよく使われた言葉です。



み・ミレニアム、千年に一度のビッグイヤーですね。

補足:2000年の正月番組での話し。



む・ムッシュは元気だね!

補足:かつての阪神の名ショートの
吉田義男に付けたあだ名。
野球のフランス代表監督だったから。



め・メークドラマ です。

補足:1996年のペナントレースを、
大逆転で優勝する決意。



も・モーグルヒル結果はどうでしたっけ?

補足:1998年の長野オリンピック時の質問。
誰も何のことかわかりませんでした。



(4)や行

や・ややもするとピンチになりますね。

補足:野球解説の時によく出た言葉。
深く考えないで使っていました。



ゆ・ユーはマンか?

補足:1975年入団した現役メジャーリーガーの
デーブ・ジョンソンが結果が出ないのに対して。
お前はそれでも男かと言ったつもり。



よ・洋服着るの初めてか?
洋服着てうれしいか?

補足:定岡正二が入団した時の対談で。
スーツを着た定岡を見て(スーツ=洋服)


(5)ら行

ら・ラッキーセブンの3ですね。

補足:好きな数字を聞かれた時の答え。



り・立教大学の野球部を卒業しました。

補足:実際は立教大学の経済学部です。



る・ルックしろ!ハイボールは!

補足:高めのボール球は見逃せという指示。



れ・レフティーズに期待しています。

補足:左腕の投手陣をこう呼んだ。



ろ・ロイヤルな方がいらっしゃったので、
今日は燃えましたよ。

補足:1959年の天覧試合で
サヨナラホームランを放つ。


(6)わ行

わ・我が巨人軍は永久に不滅です

補足:自らの引退試合での名言








プロ野球
意味不明ですが、何となくわかる「長嶋語」





3、おわりに


いかがでしたか?


意味不明ですが、
何となくわかる「長嶋語」


現役時代は「記憶に残る選手」
としてファンを楽しませてくれました。


言葉も「記憶に残る言葉」
として楽しませてくれます。


その言葉からは
【長嶋茂雄】の魅力が感じられます。


やはり【長嶋茂雄】
「永久に不滅です!」




最後まで読んで頂き有難うございます。



参考書籍:オークラ出版発行・広尾晃著
「記憶」より「記録」に残る男 長嶋茂雄



参考資料:ウィキペディア





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長嶋茂雄の迷言【思わず笑ってしまう「あ行~た行」で始まる言葉】

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最終更新日 2024年2月28日









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1、はじめに


【長嶋茂雄】の発した言葉は、
なるほどと思う「名言」
思わず笑ってしまう
「迷言」「英語の造語」があります。


その中で「迷言」だけを集めてみました。


今回は「あ行~た行」までの
「迷言」を紹介します。


大いに笑ってください。



長嶋
長嶋茂雄の迷言(あ~た)

2、迷言(あ行~た行)


(1)あ行


あ・アメリカにも進出しているのだ、大したもんだ。

補足:ニューヨークでマクドナルドの看板を見て。


あ・アイアム失礼

補足:意味は解ります。



い・インフレでね、ことしは全国的に

補足:インフルエンザのことを言っています。


い・いわゆる一つのファインプレーです。

補足:よく聞いた言葉です。


い・いいな、みんな!槙原が緊張するから
完全試合なんて口にするなよ!

補足:長嶋監督の隣に当の槙原が。



う・打つと見せかけてのヒッティング

補足:代打川相へのアドバイス。



え・「EXIT」、さすがアメリカは球場全体が
エキサイトしてますね。

補足:球場で「EXIT(出口)」の看板を見て。



お・俺はカンニングの天才だ。一度もばれたことがない。

補足:立教大学時代に杉浦忠が協力しました。


お・俺は何故バースデーホームランがないのか?

補足:2月20日生まれなので、公式戦のホームランは無理。


(2)か行


か・体が大きくなったな、顔もうるさくなったな。

補足:広島の東出の成長ぶりを褒めて。



き・今日はSMAPのキムラタロウ君に会ってきたよ。

補足:勝手に名前を付ける名人。



く・桑田・斎藤・桑田の3本柱ですね。

補足:今年の投手陣の柱はと聞かれた時に。



け・げんちゃん、今日は行くよ。

補足:原始人に似ていたから河野博文をげんちゃんと呼ぶ。
在籍中1度も名前で呼ばれたことがなかった。



こ・コールミータクシー。

補足:アメリカでタクシーを呼んでと言ったつもり。


こ・困っちゃうな♪スランプにおそわれて。

補足:山本リンダのヒット曲「困っちゃうな」に
引っかけて。






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(3)さ行


さ・佐賀君の出身はどこなの?

補足:佐賀県出身の芸人「はなわ」に対して。



し・人生はギブアップだ!

補足:諦めてはいけないと、選手に喝をいれた後に
「ネバー」が抜けていました。


し・失敗は成功のマザー

補足:母をマザーに



す・スズメ軍団、今年はやるんじゃないですか。

補足:ヤクルト・スワローズのキャンプを視察して。



せ・セコムしてますか?

補足:セコムのCMをしていたのに、自宅に泥棒に入られて。
この一件でセコムの株価が暴落。


せ・せいぜい日光浴をして黒くなろうと思ったんですよ。

補足:色が白いと試合中の動揺が顔に出ると聞いて。



そ・そうですか。ぼくはまだ読んでいませんが。

補足:長嶋の書籍を読んだ人が
「面白かったです」と言ったのに対して。


(4)た行


た・たけちゃん、今日はゴルフですか。

補足:ビートたけしを
自分でゴルフに誘っておきながら忘れてしまって。


た・大変よくわかりました。

補足・川上哲治監督が、ミーティングのレポートを
たった一行で提出。



ち・「ちとはあ」、お前は練習がたらん。

補足:大学時代に「ちとはあ」というあだ名をつけられた。
話の合間に「ちと」「はあ」が入っていたため。


ち・中堅、中堅、中堅でいいよ。でもハチ公じゃあ困るけど。

補足:ベテランと言われて。



つ・鶴さん、ひさしぶりです。

補足:高倉健に会ったのに、鶴田浩二と間違えた。



て・電車が行き先を間違えて、遅れた。

補足:遅刻の言い訳を電車のせいに。



と・どなた様でしたっけ?

補足:徳光和夫に向かって。
大の長嶋ファンの徳光和夫は
ショックで寝込んでしまったと言われています。


と・歳はとるものじゃない。
食う物。誕生日のたびに年齢をイートする。

補足:歳をとることを、歳をくう。とも言います。
そこでお得意の和製英語です。


ど・動物的勘というのはもっと恐ろしい、
脅威的なものだと思う。
ぼくのはまだまだ人間的勘だよ。
動物までいっていないよね。

補足:「長嶋は動物的勘の持ち主」と
言われていることに対しての言葉。


野球
憧れの背番号3


3、おわりに


いかがでしたか?


思わず吹き出してしまいませんか?


意味不明の言葉もあったかと思いますが、
これを「長嶋語」と言うそうです。


いくら面白い言葉だからといって、
一気に紹介しますと
「食傷気味」になるかと思い
ここで終わりにします。


次も笑って下さい。




最後まで読んで頂き有難うございます。

参考書籍:オークラ出版発行・広尾晃著
「記憶」より「記録」に残る男 長嶋茂雄



参考資料:ウィキペディア






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長嶋茂雄の名言「35,36歳からが本当の自分との戦いだ!」

最終更新日 2023年9月1日

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1、はじめに


「35,36歳からが本当の
自分との戦いだ!」




この名言は、1972年11月頃の言葉で、
36歳の時です。


1972年の【長嶋茂雄】は、
打率は.266で低打率でしたが、
ホームラン27本、打点92点と
結果を残しました。


しかし、年齢のことを言葉に
出しているので、
本人にしかわからない「体力面」の
変化があったと考えられます。


そこで1972年を振り返りながら、
【長嶋茂雄】の心の葛藤を
考えていきます。


仕事や生活して行く上で参考にして下さい。


長嶋
1972年の巨人は、
8連覇を達成しました。


2、長嶋茂雄の葛藤


1972年の巨人は、
強さに陰りがみられましたが、
王、長嶋の活躍で打撃陣が
投手陣を引っ張る形で、
8連覇を達成しました。


(1972年の巨人・長嶋茂雄の詳細
はこちらからどうぞ)


このシーズンの【長嶋茂雄】の打撃成績は、
一見、問題ないようにみえますが、
相撲でいう「心技体」能、
力がこの頃から
少しづつ衰え始めたのに
気が付いていたそうです。


それは


①全試合フル出場


【長嶋茂雄】のモットーに、
全試合フル出場をしてファンを
喜ばすということがありますが、
この年は125試合の出場に
とどまりました。


②打撃理論



「来た球をバーンと打つ」という
型があるようでない、
【長嶋茂雄】の打撃理論に基づいた練習で、
「心技体」のすべてが充実していた
前年位までは、
自分自身で捉えたと思った打球に
「抜けろ」と言うと
野手の間を必ず抜けたし、
ホームランにもなっていました。

ところが、この頃になると
「良い感触」で打った打球が
野手の正面に飛び、間を抜けなくなり、
違和感を感じるようになり、
違和感の数が徐々に増えていきました。

修整しようと練習をしても、
修整できなかったそうです。

③デッドボール


以前から「デッドボール」が
よけられなくなれば終わり、
よける自信がある。

体力・気力が充実していれば、
「絶対によけれる」と言っていましたが、
この頃デッドボールを受けた時、
よけられず当たったことに対して、
「技術的な迷い」があったと
言っていました。


このようなことから技能・体力の
衰えを感じていたと思います。


またこの頃、
少年時代にプロ野球の選手になりたい
と思った夢が叶い、
プロ野球選手になれた今、
その思いが消えない以上は、
「1試合でも1イニングでも
多く出場したい」
と言う発言もあり
【長嶋茂雄】の心の葛藤がうかがえます。


そのような思いが表れたのが


「35,36歳からが本当の自分との戦いだ!」


ではないでしょうか。







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3、おわりに


「35,36歳からが本当の
自分との戦いだ!」

は、

ファンを一番に考える【長嶋茂雄】が、
若い頃は「若さの勢い」でファンを
喜ばすことができるが、
技能や体力が落ちてきた今は、
過去の経験や精神力で1日でも多く
ファンを喜ばせたいという
思いを感じる言葉です。


私達が、仕事や生活する上でも
年を重ねていき、若い頃にできたことが
できなくなったり、
無理が効かなくなってきます。


特に仕事をする上においては
色々な葛藤がありますが、
仕事に精通し、指導的な立場になり、
自分を生かすように
しなければいけません。


職場というのは、
色々な年齢の人で構成されています。


世代が違うので
価値観の違いが生じます。
しかし、目標は同じであるので
お互いが理解し合って、
目標を達成しなければいけません。


そのことを教えてくれたのが、


「35,36歳からが本当の
自分との戦いだ!」


ではないでしょうか。



最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録



参考資料:ウィキペディア


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長嶋茂雄の名言「ファンに感謝する真心・・力を出すことができる」

最終更新日 2023年8月28日



野球
ファンあってのプロ野球

1、はじめに


「ファンに感謝する真心があれば、
体力の限界まで力を出すことが

できるはずだ」




この名言は、1971年12月の終わり頃の
言葉です。


この年巨人は7連覇を達成し、
向かうところ敵なしの状況でした。


【長嶋茂雄】はこの年のシーズン前、
巨人の第13代キャプテンに
就任しました。


これまでも「王貞治」と共に
チームリーダーとして、
巨人を引っ張って来ましたが、
キャプテンという肩書がついたので、
今まで以上にチームリーダーとして
チームをまとめることが
要求されるシーズンでした。


そんなシーズン終了後に
発言したこの言葉には、
どんな思いがあるのか探りました。


私たちが、仕事や生活をして行く上での
道しるべともなりますので、
ぜひ最後まで読んで頂き参考にして下さい。




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2、長嶋茂雄の姿勢


(1)ファンを大切に


1971年の【長嶋茂雄】は、
35歳で首位打者を獲得しました。


35歳での首位打者は当時、川上哲治と並ぶ
「最年長首位打者」で(現在も日本人最年長)
まだまだ健在ぶりを見せてくれました。


【長嶋茂雄】といえば、
ファンやマスコミを大切にすることで
有名でしたが、
なかでもファンのことを考えて
野球ができる選手は、
【長嶋茂雄】以上の選手はいないと
思います。


その考えの中心は、
「どのようにしたらファンが
喜んでくれるのか」

「どのようにしたらファンが
楽しんでくれるのか」
でした。

長嶋
憧れの背番号3

(2)ファンを考えての行動


①ブカブカのヘルメットをかぶり、
三振したときにハデにヘルメットが
飛ぶようにしていました。


そして、いかにかっこよく
ヘルメットを飛ばすか
練習していました。


②広い守備範囲と華麗な守備。
(ショートゴロを取りに行くほど)


③敬遠のフォアボールを嫌い、
バットを持たずに
バッターボックスに入り、
素手で構えたことがあります。


その他ありますが、一番こだわったのが、
全試合、全イニングに
出場することでした。


理由は、
当時入場券を手にいれるのが困難で、
後楽園球場に観戦に来るファンが
何年かに一度、
もしかしたら、
一生に一度かもしれません。


そんな人達がいることを思い、
ケガでも
「人前でケガと言わなければケガではない」
という持論で出場し続けました。


しかも、フルイニング出場に
こだわりました。


常に全力でファンを向いて野球をし、
ファンに喜んでもらう。
そのためには、人一倍練習する。


そんな【長嶋茂雄】だからこそ
35歳になっても、
「ファンに感謝する真心があれば、
体力の限界まで力を出すことが

できるはずだ」
と言えたのです。





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3、おわりに


【長嶋茂雄】が活躍していた時代は、
私が小学生(小学生以前は記憶がない)から
高校生までです。


そのころよく言われたのが、
子供達の好きなものの定番として
「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉です。


その巨人の場合、
V9の真っただ中で、
ほとんどの主力選手が、絶頂期でした。


その中心に【長嶋茂雄】がいて、
絶頂期の選手が前後にいる
強いだけでなく、魅力的です。
だから人気がありました。


人気球団で一番人気のあった
【長嶋茂雄】がファンのために野球をする
そんな思いが
「ファンに感謝する真心があれば、
体力の限界まで力を出すことが

できるはずだ」
と言えたのではないのでしょうか。


またこの言葉は、
私達にプロフェッショナルのあり方を
教えてくれています。


プロとして仕事をしていく上で、
自信と責任をもって
仕事をすることが大事なことです。


人知れぬ努力と工夫、
強い信念を持って仕事をしていくことが、
真のプロといえるのではないでしょうか。



最後まで読んで頂き有難うございます。


参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録参考資料:ウィキペディア

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長嶋茂雄の名言「勝てば官軍、負ければ賊軍なんです」を話題のタネに!

ドーム

最終更新日 2024年3月5日



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1、はじめに


「勝てば官軍、
負ければ賊軍なんです」


は、
1979年の新年早々の言葉です。


この言葉の由来は、
1968年に起きた戊辰(ぼしん)戦争です。


薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)を
中心にした西郷隆盛率いる新政府軍と
徳川第15代将軍・徳川慶喜率いる
幕府軍が、
京都の鳥羽伏見の戦いを皮切りに、
五稜郭の戦いで幕府軍が敗れるまでの
戦争を戊辰戦争と言います。

この戦争により、今まで官軍だった
負けた幕府軍が、賊軍になり

今まで賊軍だった
勝った新政府軍が、官軍となった事に
由来しています。


意味は、どんなことでも勝ったり、
強ければ何をやっても正義である
ことの例えです。


【長嶋茂雄】らしからぬ
過去から由来の言葉を使っています。


いったい何故このような
言葉が出たのか、
監督就任から発言があった
直近の1978年までのシーズンを
振り返り、確認していきます。

長嶋
勝てば官軍負ければ賊軍

2、1975年から1978年の長嶋巨人


(1)1975年

1975年、球団史上初の最下位になり、
さすがの
「スーパースター・長嶋茂雄監督」にも、
罵声や批判の声が上がり、
心身共に疲れたシーズンになりました。


自身も、
「何をやってもうまくいかず
やられっぱなし、
結果が悪ければファンも天も見離す」と
言っていました。


ベンチ内でも、やり場のない怒りを
「物」にぶつけていました。


9連覇の後、2年連続で優勝を逃し、
正に「賊軍」のシーズンでした。



(2)1976年


1976年のシーズンは、
前年の屈辱から積極的に補強しました。


シーズン前半から、
首位を独走しましたが、
ペナントレース終盤には、
阪神の猛追を受けて、
逆に阪神にマジックが点灯する
可能性もありました。


結果は巨人が最終戦で勝ち、
セ・リーグ優勝を決めました。


この時点では「どんな勝ち方」でも、
勝ったので「官軍」です。


日本シリーズでは阪急に
敗れてしまいましたが、
「常勝・巨人」が2年間、
セ・リーグ優勝がなかっただけに、
セ・リーグ優勝だけでも
「歓喜」のことでした。






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(3)1977年


1977年のシーズンは、
「カモ」のチームを2チーム作り、
2チームから21の貯金を作るなど、
圧倒的な強さで、
シーズン通して首位を走り続けました。


日本シリーズでは、
またしても阪急に敗れ
日本一を逃しました。

(4)1978年

1978年のシーズンは、
日本シリーズに勝つための補強をして、
シーズンに臨みました。


シーズンを通して、
ほとんど首位にいましたが、
9月に入るとチームの勢いが急に失速し、
逆に勢いがでてきた、
ヤクルトが優勝しました。


結果的には2位に終わったものの、
巨人OBからは、
他チームを圧倒する戦力がありながら、
優勝できなかったのは
【長嶋茂雄】の采配ミスで
【長嶋茂雄】の野球を見ていると、
野球を知らないのではないかと
思えることが、随所にあった」との
酷い発言もありました。


これをきっかけに「長嶋采配」への
批判が起こり始めました。
正に「負ければ賊軍」です。


この年の11月21日には、
翌日のドラフト会議を前の
「空白の1日」を巨人にとって
都合の良い解釈をして、
ドラフトNO1候補の江川卓を、
(やったもの勝ちの「勝てば官軍」で)
入団契約を強行しました。


これが「江川卓空白の1日事件
始まりでした。


この「江川事件」や
「長嶋批判」が解決しないまま、
1979年になり
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
発言につながりました。




長嶋
1978年長嶋采配に対する批判

3、おわりに


「勝てば官軍、負ければ賊軍」
という言葉は、
【長嶋茂雄】とは思えない
オリジナリティのない言葉で、
めったに言わない愚痴にも
聞こえる言葉なので貴重です。

監督としての、
喜びと苦悩をよく表している
言葉です。


この言葉は、
普段から聞きなれている方も
多いと思いますが、
野球や他のスポーツだけでなく、
仕事や生活をしていく上でも
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
「勝てば官軍」に当たる
「結果を残す」ことを
要求されることが多々あります。


しかし、その場合は
「結果さえ残せば良い」という考えで、
「結果」のみを重視すると反感を
買う場合がありますので、
仕事や生活をしていく上で
「勝てば官軍」になるためには、
プロセスを大事にして、
「結果を残したい」ものです。




最後まで読んで頂き有難うございます。



参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録



参考資料:ウィキペディア




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長嶋茂雄の名言【もうひとりの長嶋をつくりたい】を話題のタネに!

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最終更新日 2024年3月5日




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1、はじめに


「もうひとりの長嶋をつくりたい」



この名言は、
1980年9月初め頃の言葉です。


1975年に巨人の監督に就任し、
6年目のシーズンです。


1980年という年は、
結果的には「監督解任」になりますが、
この時点で既に、
裏で工作が行われていたかも
知れませんが、「監督解任」は
表に出ていませんでした。


したがってこの時点では、
これからの巨人のため、
日本プロ野球のために、
次のスーパースターである
「もうひとりの長嶋をつくる」ための
使命感に燃えていたと思います。


この名言が出た背景を
監督就任中の6年間の
出来事で探っていきます。


特に「4番・サード」をつくるための
努力を振り返りたいと思います。

長嶋
もうひとりの長嶋をつくる

2、長嶋監督の6年間


(1)監督1年目

(順位=最下位)

1974年10月14日現役引退すると、
休む間もなく、
11月21日には巨人の監督に
就任しました。


11月19日のドラフト会議では、
高校球界4天王の一人
「定岡正二」を指名しました。


後に【長嶋茂雄】の指導で
巨人の主力投手になりましたが、
この時点で人気は抜群でしたが、
実力は未知数でした。


監督1年目の1975年は、
コーチ陣を一新しましたが、
【長嶋茂雄】を筆頭に
「投、打、守」の主力が抜け
戦力は大幅にダウンしました。


特に「4番・サード・長嶋」
抜けた穴は大きく、
開幕当初は「富田勝」でしたが、
打棒が振るわず、
4月18日には、現役メジャーリーガーの
「デーブ・ジョンソン」を獲得し、
サードを守りましたが、
本職がセカンドのため、
守備の負担から打撃不振となり、
シーズンを通しての活躍が
出来ませんでした。


監督1年目は、
「4番・サード」の必要性を
痛感した年ではないでしょうか。




(2)監督2年目



(順位=セ・リーグ優勝、日本一ならず)

監督2年目の1975年の
ドラフト会議では、将来の主力
「篠塚利夫(和典)・中畑清・山本功児」
を獲得しました。


1976年のシーズンは打撃面で
日本ハムから獲得した
「張本勲」がシーズン通して3番で活躍、
4番「王貞治」との二人で、
【長嶋茂雄】の穴埋めができました。


また、守備面では
「張本」がレフトを守ることにより、
レフトのレギュラーだった
「高田繁」がサードにコンバートされ、
ダイヤモンドグラブ賞を獲得し、
守備面でも
【長嶋茂雄】の穴埋めができました。


チームとしては、
セ・リーグ優勝ができましたが、
【長嶋茂雄】の後釜という観点では、
一時しのぎの感が否めませんでした。




(3)監督3年目



(順位=セ・リーグ優勝、日本一ならず)

監督3年目の1976年の
ドラフト会議では、
将来の主力
「角三男(盈男)・松本匡史」を
獲得しました。


1977年のシーズンは、
圧倒的な強さでセ・リーグ2連覇。
しかし、日本シリーズではまたもや
阪急に敗れました。


内野手では、
ショートに「河埜和正」が
レギュラーとして台頭してきました。


また投手では、
ファンやマスコミの批判の中、
我慢して使い続けた
「新浦寿夫」が先発、抑えで
大活躍しました。


3番は張本、サードは高田
1年を通して活躍しました。





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(4)監督4年目



(順位=2位)

1977年のドラフト会議では、
不動の捕手となる
「山倉和博」を獲得しました。


1978年のシーズンは、
8月までは順調に首位を走っていました。


9月に入ると取りこぼしが多くなり、
結果後半勢いの出た
ヤクルトが優勝しました。


2位であったとはいえ、
巨人OBから采配に対する批判が
渦巻きました。


3番張本サード高田は順調でした。


1978年のシーズンオフには、
江川卓・空白の1日事件が発生しました。




(5)監督5年目



(順位=5位)

前年の「江川事件」で、
ドラフト会議をボイコットしたため、
新人はドラフト外で獲得しましたが、
主力となったのは
「鹿取義隆」だけでした。


1979年のシーズンは、
「小林繁」が「江川」とのトレードで
阪神に移籍したことと、
主力選手の衰えが目立ち始めたことで、
戦力ダウンとなり、
セ・リーグ5位におわりました。


3番張本サード高田
出場機会が少なくなり始めました。




(6)監督6年目



(順位=3位)

1979年のドラフト会議では、
将来の主役「岡崎郁」を獲得しました。


またこのオフには、
「シンデレラボーイ」と呼ばれる
巨人のV9時代を知らない18人の
若手有望選手が、
「地獄の伊東キャンプ」で
鍛え上げられました。


18人の選手は、
投手:江川、西本聖、角、藤城和明、鹿取、
赤嶺賢勇

捕手:山倉、笠間雄二

野手:中畑、淡口憲治、篠塚、松本、
平田薫、山本、中司得三、
河埜、中井康之、二宮至
でした。


【長嶋茂雄】の今後のチーム作りが
窺われる人選でした。


1980年のシーズンは、
「江川、西本、定岡」の投手陣の
頑張りがあったものの、
張本の抜けた穴、王の衰えなどで、
打撃陣は不調で、
何とか3位で終わることができました。


このため、3番、4番を打てる打者を
作ることが急務となりました。


また、サードは中畑がこの年1年間、
守り抜きましたが、
レギュラーをつかんだとまでは
言えませんでした。


この時点で来シーズンには、
「もうひとりの長嶋をつくる」
青写真ができていたと思いますが、
「突然の監督解任劇で実現できませんでした。


長嶋
1977年のシーズンは、
圧倒的な強さでセ・リーグ2連覇

3、おわりに


1975年から1980年の第一次長嶋政権は、
「4番サード」が抜けた
苦しい状況でのスタートでした。


監督として、選手のやり繰りに苦労し、
「常勝・巨人」の監督としては、
勝つことを采配の中心にしてきたため、
若手の成長が遅れてしまいました。


しかし、若手を育てることの必要性は、
【長嶋茂雄】が一番わかっていたはずです。


そんな中1979年のシーズンオフに行われた
「地獄の伊東キャンプ」は
若手を育てるための
本格的なスタートでした。


そのため1980年は、
若手を育てるための「我慢の采配」をして、
1981年には「もうひとりの長嶋つくる」
自信があったのではないでしょうか。


それが第一次長嶋政権では、
実現しませんでした。


しかし時を経て、第二次長嶋政権では、
「松井秀喜の1000日計画」
「もうひとりの長嶋をつくる」
ことができました。




最後まで読んで頂き有難うございます。




参考資料:ウィキペディア


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日本プロ野球衝撃の事件「長嶋茂雄監督、突然の解任劇!」

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最終更新日 2023年9月5日






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1、はじめに


1980年10月21日
読売新聞本社で突然に行われた記者会見。
「長嶋茂雄監督」の
「解任」の記者会見でした。


その席で、
「3年間優勝が出来なかったのは、
すべて自分の責任、
男としてけじめをつける」と
監督を辞任するように話しています。


しかし当時の新聞報道では、
会見時の表情から
無念さが感じられたと
書かれていました。


これに対して球界のOBも、
「球界にこれだけ貢献した人が
汚れたままで
やめなければいけないのは、
かわいそう」
と言っていました。

共に巨人を支えてきた王貞治は、
「自分で育てた若い選手が
戦力になりつつあるので、
残念な事だと思います。」

「ニュースで知りショックです」
と話しています。


このように誰もが信じられない
突然の話しでショックなことでした。


それでは、
いったい何があったのでしょうか。
「解任」に至るまでを振り返ります。

長嶋
長嶋茂雄突然の解任

2、長嶋監督の6年間


1975年の監督1年目
現役引退即、監督就任で
クリーンベースボールを標榜し、
ユニフォームやコーチ陣を
一新しスタートしましたが、
自分を含め、森昌彦、黒江透修と
いった主力選手が抜け、
新戦力もなく監督としての準備が
十分でないまま
シーズンを迎えました。


結果は、球団史上初の最下位でした。
あの「スーパースター長嶋茂雄」が、
ファンから罵声を浴び、
マスコミには選手起用法で
批判を受けるという
信じられない結果でした。


1976年の監督2年目は、
積極的にトレードを行い
適材適所のポジションが功を奏し、
セ・リーグ優勝を果たしましたが、
日本シリーズでは阪急に敗退しました。


1977年の監督3年目は、
圧倒的な強さで首位を独走し、
セ・リーグ2連覇。
しかし、
日本シリーズではまたも阪急に敗れました。


1978年監督4年目は、
ドラフトやトレードで積極的に補強し、
今年こそは日本一、
と臨んだシーズンでした。


シーズン終盤に取りこぼしが多く、
結果2位で終わりました。


この結果巨人OBからは、
「長嶋采配」に批判が集まり、
優勝を逃したのは、
「長嶋の采配ミス」と叩かれました。


また、この年あの「江川事件」
発生しました。


1979年監督5年目は、
前年のドラフト会議をボイコットしたため
新戦力がないままシーズンに入りました。
結果は5位でした。


この年のシーズンオフ
「地獄の伊東キャンプ」と言われる
後の巨人の主力となる18人の
選手を徹底的に鍛え上げました。


1980年監督6年目は、
投手陣は頑張ったが、
打撃陣の不振で、
チームは辛うじて3位でした。


この結果、
さらに「長嶋批判」が高まり
「解任」となりました。





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3、解任理由


1979年頃になると、
強かったV9時代を懐かしみ、
川上前監督の再登板を
願う声が出始めました。


1979年の5位に終わった年の
シーズンオフ、
トレードに出された張本勲が、
この当時の巨人のコーチ陣は、
長嶋監督を助けようとせず、
フロントの顔色ばかりを
窺っていたと話しています。


これには、理由があります。

長嶋監督就任後、
自ら選んだ11人のコーチが
フロントにより
「解任」されているからです。


このように
「長嶋監督排斥に向け着々と進む中、
1980年のシーズン中
川上前監督を中心に、
次期巨人の監督についての
話し合いが行われたと言われています。


また、
1980年のシーズンでAクラスに残れば、
監督残留という話でしたが、
一転して「解任」ということから、
川上前監督派の「陰謀」だと
言われることになりました。

このような事から、
長嶋監督が川上前監督に対する不信感を
持つようになりました。

プロ野球
川上前監督派の「陰謀?」

4、長嶋監督の思い


長嶋監督自身は、
監督就任以来6年間で
鍛え上げた選手たちと
1981年は勝負をかける予定でした。


また、長嶋監督の思いを一番近くで
見ていた王貞治も、
「育ててきた若い選手が
のびてきただけに、
ここでの解任は無念だと思う」
言っていますが、
正にこの通りの思いだったのでしょう。


また、オーナーからフロント入りを
進められましたが、
拒否して、完全に退団となりました。


無念な思いはファンも同じで、
「解任」の記者会見後には、
読売新聞の不買運動
起こるほどでした。

5、おわりに


この「解任」劇は、
長嶋監督にとってもファンにとっても
「寝耳に水」の話でした。


1981年こそは、
長嶋監督が育てた選手で日本一を
期待していたファンも
多かったはずです。


1981年の巨人は藤田監督だから
日本一になれたという声もありますが、
活躍したのは、
長嶋監督が育てたと言われる
選手がほとんどです。



だから長嶋監督が続投していても、
日本一になれた
のではないでしょうか。


そのように思うので、
現在でも、残念で仕方ありません。



最後まで読んで頂き有難うございます。


参考書籍:株式会社ベースボールマガジン発行
日本プロ野球事件史


参考資料:ウィキペディア









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長嶋茂雄の名言「スランプを何度も自分なりに克服してきた」!

プロ野球

最終更新日 2023年5月26日






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1、はじめに


「スランプを何度も自分なりに
克服してきた」




この名言は1974年(昭和49年)の
シーズン途中で新聞に自ら書いた
手記の一部です。


この名言は不振にあえぐ
【長嶋茂雄】に対して
ファンの間でも「引退」という
話題が出始めた頃に
周りから「引退を前提」とした
質問が飛び交う
ようになった時の「答え」の
言葉でもあります。


この年は【長嶋茂雄】
「引退の年」ですが、
前年のシーズンオフ「川上監督」から
「引退勧告」を
受けた時に懇願し、
もう1年現役を続けることなった
という経緯があるだけに、
特別な思いで臨んだシーズンでした。


そこで、
「スランプを何度も自分なりに
克服してきた」
発言前のことを思い出し、
どのような状況から出た言葉かを
紹介します。


ぜひ「話題のタネ」にしてください。



「引退を前提」とした
質問が飛び交う
ようになった時の「答え」の
言葉
「引退を前提」とした
質問が飛び交う
ようになった時の「答え」の
言葉

2、1974年のシーズン前


前年の「川上監督」からの
「引退勧告」により、
【長嶋茂雄】にとっては
「今年ダメだったら引退する」という
強い決意で臨むシーズンになりました。


その決意を持って、自主トレ、
キャンプに臨みました。


この時の心境は、
「現役を続けたい」という思いと、
「引退しなければいけない」
という思いが半々だったそうです。


この年のスタートは
「合同自主トレ」からでした。


この年は「川上監督」の指示で
「前年より30%アップの運動量」
という課題を
選手全員に課されました。


そんな中【長嶋茂雄】
自主トレの全てのメニューを
こなして周りを驚かせました。


そして宮崎キャンプは、
「精神を鍛え、体の限界に挑戦する」
という意気込みで
スタートしました。


その言葉通り、
主力選手の練習は14時までに終わるのが
普通でしたが【長嶋茂雄】
14時以降もランニングなどで
連日暗くなるまで練習をしました。


この時点では、
体のどこも悪くないので、
例え数字が低い結果となっても
「野球がしたかった」と
後に言っていました。


このような思いがあるので、
気持ちは揺らいでいました。


それを振り払うために、
ひたすら練習をしました。


そして1974年のシーズンが開幕します。





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3、引退の決意


揺れ動く気持ちを抑えて
1974年のシーズンが開幕しました。


しかし【長嶋茂雄】
考えていた以上に、
苦悩のシーズンになりました。


開幕から打撃不振が続き、
4月の月間成績は
打率.258
ホームラン4本
打点8点と信じられない数字でした。


5月に入ると打率はさらに下がりました。
チャンスに凡退しファンからため息が出る
シーンが多くなりました。


6月に入り「川上監督」はついに
【長嶋茂雄】をスタメンから
外す決断をしました。


それは6月13日の後楽園球場での
中日戦でのことでした。


場内アナウンスのスタメン発表で
【長嶋茂雄】の名前が
最後までアナウンスされなかったので、
スタンドはどよめきました。


【長嶋茂雄】が病気や怪我以外で
スタメンを外れるのは、
プロ入り2度目のことでした。


この試合は代打で登場しましたが、
凡打に終わっています。


「川上監督」はスタメンを
外した理由を
「疲れが出ているので休ませた」と
言っていました。


その後も結果が出ず、
それを打ち払うようにひたすら
練習をしました。


またこの頃の打撃について、
「今までは、バットの根っこに
ボールが当たっても
野手の間をボールが抜けていたのに、
真芯でとらえた打球が、
なぜか野手の正面を突いてしまう」と
言っていました。


このような状況で【長嶋茂雄】
引退が現実味をおびてきて、
ファンの間から心配する声が
出るようになりました。


それに答えたのが
「スランプを何度も自分なりに
克服してきた」
「だから心配しなくてもいいし、
引退など考えていない」
ということです。


しかし、この言葉を境にして
「引退への花道」を
進んでいくことになります。

例え数字が低い結果となっても
「野球がしたかった」
例え数字が低い結果となっても
「野球がしたかった」


4、おわりに



「スランプを何度も自分なりに
克服してきた」



この名言で【長嶋茂雄】
引退を否定しましたが、
自分自身では少なからず、
その日が迫っているのを
感じていました。


それでも【長嶋茂雄】は、
自分のモットーである
「ファンを喜ばす」為に
必死で自分の限界に挑戦
しました。


そしてその裏では
【長嶋茂雄】の近くにいる人たちは、
「引退の覚悟」を感じていたそうで、
引退の日に向けて準備を進めると共に
マスコミ関係には「引退の報道協定」を
要請し
「引退報道」が出ないようにしました。


【長嶋茂雄】は、
オールスター前には
「引退」を決めていたそうです。


そして、最初に「引退」を伝えたのは
妻の「亜希子」でした。


「亜希子」は一言
「労をねぎらった」そうです。


最後に、
1974年の【長嶋茂雄】
ファンを喜ばすため、
ファンに心配かけないため、
「引退」の文字がちらつく中で、
例年以上に必死で自分の限界まで
練習しました。


その思いが
「スランプを何度も自分なりに
克服してきた」
詰まっていると思います。


私たちも誰かのために、必死で頑張る
【長嶋茂雄】の姿勢を学びたいものです。




最後まで読んで頂き有難うございます。



参考書籍:
著者=鷲田康
発行者=飯窪成幸
発行所=株式会社文藝春秋
「長嶋茂雄最後の日」



参考資料:ウィキペディア 




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長嶋茂雄の名言「負けるのは監督が悪い」を話題のタネに!

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最終更新日 2023年8月8日



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1、はじめに


「負けるのは監督が悪い」
この「名言」
1975年8月の終わり頃の
インタビューで言った「名言」です。


1975年は【長嶋茂雄】
監督1年目です。


「クリーンベースボール」
スローガンに
文字通り「きれいな野球」
目指しました。



その野球とは「投打」
相手チームを圧倒し
「ファンに魅せて喜ばす野球」です。


「川上監督」時代の「巨人」
「ドジャース戦法」
という「守り勝つ野球、確率野球」
「9連覇」と言う偉業を成し遂げました。


「勝つ」ことによって
「ファンを喜ばせました」

【長嶋茂雄】は現役時代から
「ファンに魅せて喜ばれる野球」
してきました。


「川上野球」に欠けていた
「ファンに魅せる野球」
「勝つ」という「野球」
目指しました。


このような【長嶋茂雄】
「クリーンベースボール」
思うようにいかず、
その苦悩から出た「名言」です。


そこで背景を探り「名言」
真意を見つけたいと思います。


ぜひ「話題のタネ」として
使って下さい。

「ファンに魅せる野球」で
「勝つ」という「野球」を
目指しました
「ファンに魅せる野球」
「勝つ」という「野球」
目指しました



2、1975年の長嶋巨人の戦い


【長嶋茂雄】は巨人の新監督として
「新たな決意」
1975年のキャンプに臨みました。


キャンプ中には「ハプニング」
色々と起こり一部の選手、コーチが
不安感を持ちました。


戦力的には【長嶋茂雄】以外にも
「黒江透修」「森昌彦」
「菅原勝矢」といった
主力級が抜けた穴を埋められず
シーズンを迎えることになりました。


さらに一大事なことに
「王貞治」
オープン戦で足を怪我して
「開幕戦」に間に合わず
苦戦を強いられることになりました。


開幕間もない4月12日には
「最下位」になりました。


打撃陣の不振を解決すべき
4月18日には
「現役大リーガー」
「デーブ・ジョンソン」
入団します。


【長嶋茂雄】の後釜でサードを
守っていた「富田勝」
不振のためと、
チーム全体の打撃不振からの
措置でした。

「デーブ・ジョンソン」
本来セカンドですが
チーム事情でやむなく
サードを守らせました。


不慣れな守備位置での
不安があり
打撃の結果を残す事が
できません。


そのため6月には「8打席連続三振」
という
不名誉なセ・リーグ記録を
作ってしまいました。


怪我で出遅れた「王貞治」
4月の後半
スタメンに返り咲きますが、
前年までは「O(王)N(長嶋)」
二人をマークしていましたが
「O」だけになり徹底的なマークに
あったこともあり
シーズンを通して不調でした。


また、
前年まで
2年連続3冠王だったのが、
結果的には「打点王」
タイトルのみとなりました。




7月の「中日ドラゴンズ」との
札幌シリーズで
中日の「高木守道」
「三(塁)・本(塁)」
間に挟まれて「関本四十四」
タッチされた時に
顔面にされたのを抗議したところ
いきなり顔面を殴ってしまい
乱闘になるという
不祥事がありました。


9月にはチームワースト記録
となる11連敗を喫し
てしまいました。


シーズンを通して「投手陣」の不調と
打撃や守備面での「穴」が埋められず
「投打」がかみ合わず
チームとしては4月12日に
「最下位」に落ちてから
1度も浮上することなく
シーズンが終わりました。





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3、負けるのは監督が悪い


1975年のシーズンが
「最下位」に終わった理由は
結果論ですので何とでも言えます。


その責任を結果として
【長嶋茂雄】
一身に背負う事になりました。


シーズンの途中頃から
【長嶋茂雄】の選手起用に対する
マスコミからのバッシングや
ファンから罵声が出始めました。


しかし、この時の選手起用が後に
開花します。


その批判を【長嶋茂雄】
一身に受け止めました。


自分の構想通りに進まない苦悩や
苛立ちの日々が続き
「ベンチ内」では悔しさから
壁を蹴る日が続き、
足の親指が変形したそうです。


このような状況だったのですが
【長嶋茂雄】は自分の采配や
出来る努力も最大限
してきたという信念を
持っていました。


だから「どんな批判」を浴びようとも
「手を尽くして」いるので
逃げたり、人を批判したりせず
全ては自分が悪いという考えでした。


そこから出たのが
「負けるのは監督が悪い」
という「名言」です。

野球
最下位になった責任を結果として
【長嶋茂雄】
一身に背負う事になりました

4、おわりに


ファンや球団から期待されて臨んだ
1975年のシーズンでしたが
結果は「ワースト記録」ばかりで
惨憺な結果に終わりました。


いくら責任をとるのは「監督」
言えども
人の批判をせず、
責任は自分にあると言い放つところは
さすがに【長嶋茂雄】だと思います。


現役時代から決して
「人の批判」をしませんでした。


また「人に苦悩を見せない」
という考えだったので
「監督」になっても
変わらなかったと思えるので
「苦悩」は計り知れません。


しかし「監督1年目」は結果論ですが
決して間違った事
していませんでした。


【長嶋茂雄】が貫いたことが
1976年の優勝につながったからです。


私たちが仕事や生活をして
行く上でも
同じように
「何もかもうまくいかない」
時があります。


そんな時には
「負けるのは監督が悪い」
思い出して下さい。


【長嶋茂雄】のように自分を信じて
全力でその場における
ベストな考えで「果敢」に攻めての
「失敗」は後悔をしません。


また【長嶋茂雄】「言い訳」
「責任転嫁」
決してしませんでした。


「言い訳」「責任転嫁」
周りを不愉快にさせるだけで
何の役にも立ちません。


その間に「原因」「対策」を考えて
次につなげる事が
大事ではないでしょうか。


この「名言」【長嶋茂雄】からの
「意味の深いメッセージ」として
頭に入れておいて下さい。





最後まで読んで頂き有難うございます。



参考書籍:株式会社河出書房新社
編者:小林信也 発行者:小野寺優


参考資料:Wikipedia




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【長嶋茂雄の名言】「私のモットーは、誠のある非情だ」を話題のタネに!

東京ドーム

最終更新日 2023年8月4日



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1、はじめに


私のモットーは、誠(せい)ある非情だ

発行所:株式会社河出書房新社
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録

この言葉は1975年の正月の言葉です。



「長嶋監督」として初めて迎えた正月で
新年の抱負と決意の表明ともとれる
「言葉」です。


前年の「感動の引退試合」の余韻が
まだ冷めやらぬ11月21日に
「読売巨人軍」
第10代監督に就任しました。


引退直前までは
「現役として2~3年はできる」と
考えていましたが、
「10連覇を逃したことと、
自分の衰え」から
引退を決意しました。


引退後は「解説者」などとして
野球を見て
コーチを経験してから
監督になるという
考えがありましたが
チーム事情で断れなくなり
「監督」に就任しました。


長嶋
1974年11月21日
【長嶋茂雄】の新監督就任発表

2、長嶋監督就任前後の出来事


1974年10月14日引退後、
慌ただしく「長嶋監督」誕生に向けて
動き出します。


10月19日:V9川上野球の名参謀の
「牧野茂・作戦コーチ」の退団発表


11月5日:「川上哲治・監督」勇退し、
球団の専務に就任すると発表


11月19日ドラフト会議:指名選手

1位指名:定岡正二
(鹿児島実業高校・投手)

2位指名:中山俊之
(大昭和製紙北海道・投手)

3位指名:倉骨道広
(東京農業大・捕手)

4位指名:塩月勝義
(協和発酵・投手)

5位指名:大本則夫
(電電(現NTT)四国・投手)

6位指名:岡昭彦
(春日部工業高校・内野手)


この年の注目選手は、
即戦力NO1と言われた

山口高志
(松下電器・阪急入<現オリックス>)


高校野球四天王と言われた注目の選手が

土屋正勝(銚子商業高校・中日入)

定岡正二(鹿児島実業高校・巨人入)

永川英植(横浜高校・ヤクルト入)

工藤一彦(土浦日大高校・阪神入)
でした。


この中で巨人が1位指名した「定岡正二」
甘いマスクで女性に人気がありました。


この「定岡正二」
【長嶋茂雄】との会談が
入団当時行われました。


その時の「迷言」
何度聞いても思わず吹き出してしまう
「定岡、初めてか?洋服着るの」
です。


その時の「定岡正二」の何と答えていいのか
困った顔が印象的です。


スーツ姿の「定岡正二」
初めて見ての言葉です。


本来は「スーツ着るの」
なるのでしょうが
【長嶋茂雄】の中では
「洋服=スーツ」ではないのかと
私は思っています。


この年の巨人のドラフト指名選手では
「定岡正二」以外は一軍での出場が
「ほとんどないかゼロ」でした。


しかし、後に主力投手となる
「西本聖」がドラフト外で
入団しています。


結果論ですが【長嶋茂雄】
「監督」としての
初年度は「即戦力」なしで
「現有戦力」の底上げをするしか
なかったのです。


11月20日:「川上哲治」が正式に
勇退を表明する。


「川上哲治」
「牧野茂、藤田元司、森昌彦」
コーチとして残すようにし、
「堀内恒夫」
トレードで出すように提案しました。


11月21日:【長嶋茂雄】の新監督就任発表
また、この日「藤田元司」投手コーチの
退団発表


11月30日:「黒江透修」が現役引退し、
来シーズンからの
一軍守備・走塁コーチ補佐への
就任が発表される


12月2日:【長嶋茂雄】
「そり」が合わないと言われた
「森昌彦」の退団決定。


【長嶋茂雄】は、
「川上哲治」の12月20日の提案を
全て退けて
「川上色を一掃」しました。


そして【長嶋茂雄】に対して理解のある

「関根潤三ヘッドコーチ」

「宮田征典ピッチングコーチ」

「淡河弘バッテリーコーチ」


「黒江透修コーチ」
を招き
「長嶋野球」の目指す「投打」で
圧倒する野球へ進む
事になります。


【長嶋茂雄】
「クリーンベースボール」
キャッチフレーズにして、
「長嶋人気」「定岡人気」が重なり
「話題満載」
監督1年目を迎える事になりました。


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3、長嶋茂雄が目指した監督像とは


【長嶋茂雄】「監督」
就任するにあたって
今までの選手としての仕事よりも
「監督」として仕事をして行く
これからが大変で
男として「真の仕事」
するようになると言っていました。


しかし、初めての経験なので不安であり
「これが監督業」
言ったこともわかってはいるが
実際に現場で指揮を執らなければ
よくわからないと言っていました。


また、「人の上」に立つということで
客観的に人を判断し
「私情」をはさまない
ようにしたいとも言っていました。


そこで、
今まで一緒に
「同僚」としてプレーしてきた
選手でも「情」を持って接するが
ファンが望む
「勝つ野球」「魅せる野球」のためには
「私情」を一切はさまないで
「選手起用」をするという決意を
表わした「名言」


「私のモットーは、誠のある非情だ」

です。


そして、この「名言」【長嶋茂雄】の描く
「監督像」であったのではないでしょうか。

長嶋
私のモットーは、誠のある非情だ

4、おわりに


「私のモットーは、誠のある非情だ」
【長嶋茂雄】指導者としての思いが
よく表されている「名言」です。


指導者は「私情」をはさめません。


それを端的に表す「中国の故事」
があります。


よく使われる「言葉」ですが
「泣いて馬謖(ばしょく)を切るです。


これは中国の三国時代の話で
かの有名な「諸葛孔明」
部下として「情」を持って接してきた
「馬謖」
命令違反に対して即座に処刑したという
「故事」からきています。


誰でも自分が信頼していた部下が
違反や失敗をしたからといって
即座に「処罰」をすることは
なかなかできません。


かばったり、
処分を軽くすることを考えます。


しかし、
このような「私情」が挟まると
他の人に示しがつかなくなり
今後の「規律」が保たれなくなり
「チーム」はまとまりません。


だから「人の上」に立つ人は「私情」
挟んではいけないと言う「戒め」になる
「故事」です。


【長嶋茂雄】「ファン」への対応や
「かつての同僚で
今後は部下になる選手達」
対応など「色々な葛藤」があり
「自分を戒める」ためにも


「私のモットーは、誠のある非情だ」

と言ったのではないでしょうか。




最後まで読んで頂きありがとうございます。



参考資料=Wikipedia






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長嶋茂雄の名言「悔いを残す野球人生で終わりたくない」を話題のタネに!

ドーム

最終更新日 2023年7月23日


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1、はじめに


悔いを残す野球人生で終わりたくない
執念の燃えカスが残っている限り
最後の最後のカスまで
ポッポと燃えているうちは
この一か八かの勝負の世界に挑戦する

発行所:株式会社河出書房新社
編者:小林信也
発行者:小野寺優
「長嶋茂雄」語録より引用


この「名言」は、
1973年のキャンプ入り直前の
言葉です。


【長嶋茂雄】の言葉としては珍しい
「悲壮感」のある言葉です。


【長嶋茂雄】
「現役」を続けたいという「執念」
野球への「執念」を感じます。


また「プロ野球」
「読売巨人軍」に対する
熱い思いも感じます。

この言葉が出た背景には、
どのようなことがあったのでしょうか?


そのために、
前年の1972年を振り返ってみます。


また、
この言葉は私たちが生きていく上でも
参考となる言葉ですので
お役に立てて頂ければ幸いです。

長嶋
【長嶋茂雄】の言葉としては珍しい
「悲壮感」のある言葉です

2、1972年の巨人


前年も安定した戦いで7連覇を達成し
8連覇を目指したこの年は、
スタートダッシュで出遅れました。


4月29日には「広島東洋カープ」の
外木場義郎に
「ノーヒットノーラン」を喫するなど
4月は3位スタートになりました。


前年までは、
圧倒的な強さで勝ち続けていたので
「主力選手に陰り」が見え始めた
シーズンのスタートでした。


しかし、5月以降は波に乗り
「首位」を走り続けました。


投手陣では「堀内恒夫」が大活躍で
結果として
このシーズン26勝を上げました。


左のエース「高橋一三」や
三本柱の一人「渡辺秀武」も
安定したピッチングでした。


また「菅原勝矢」が頭角を現し
13勝を上げました。


打撃陣では「王貞治」が絶好調で
9月には7試合連続ホームランの
日本新記録を達成するなど
ホームランでチームを引っ張りました。


この年は「末次利光」が
5番でライトに定着し
安定した成績を残しました。


その他のレギュラー陣も安定した成績で
チーム打率は、セ・リーグ1位でした。


打撃陣がチームを引っ張る戦いが
続きました。


その象徴となるのが6月22日の
「ヤクルトアトムズ」戦で
日本タイ記録となる
「1イニング13得点」を記録したことです。


日本シリーズでも、この打撃の勢いと
「堀内恒夫」「高橋一三」の両輪が
「阪急ブレーブス」の
足と強力打線を抑え4勝1敗で勝ち
「8連覇」を達成しました。






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3、1972年の長嶋茂雄


前年の【長嶋茂雄】は全試合に出場し
「最優秀選手」「首位打者」を
獲得し大活躍でした。


1972年は「選手兼打撃コーチ」として
スタートしました。


自分だけでなく「選手達」の
指導もあるので
今まで以上に多忙となりました。


ホームラン(27本)打点(92点)と
まずまずの成績でしたが
打率(.266)でプロ入り最低の成績で
バッティング面での陰りが見え始めました。


しかしこの年も
「入団以来15年連続のベストナイン」と
この年に新設された
「ダイヤモンドグラブ賞」を
受賞しています。


打撃コーチとしてもチーム打率が
セ・リーグで1位だったので
成果が出たのではないでしょうか。


また「日本シリーズ」では
2本のホームランなどで
日本一に貢献し「日本シリーズ」の
「優秀選手賞」を受賞しています。


1972年のシーズンは、
一見好調のようですが、
【長嶋茂雄】象徴である
「打率3割」を記録できなかったことが


悔いを残す野球人生で終わりたくない
執念の燃えカスが残っている限り
最後の最後のカスまで
ポッポと燃えているうちは
この一か八かの勝負の世界に挑戦する


につながっているのではないでしょうか。

野球
「日本シリーズ」では
2本のホームランなどで
日本一に貢献し「日本シリーズ」の
「優秀選手賞」を受賞しています


4、おわりに


悔いを残す野球人生で終わりたくない
執念の燃えカスが残っている限り
最後の最後のカスまで
ポッポと燃えているうちは
この一か八かの勝負の世界に挑戦する



この言葉が出た背景には
「1972年のシーズン」に
【長嶋茂雄】しか知らない「3割」を
打てなかった理由が
あったのではないでしょうか。


体力の衰えを感じつつも
「野球に対する情熱」
衰えないので身も心も
「ボロボロ」になるまで
全力を尽くし結果を残すと共に
「ファン」を大切にする
【長嶋茂雄】にとっては
まだまだ自分のプレーで
「ファン」を喜ばせたい
という強い思いが
あったのではないでしょうか。


私たちも、この言葉のように
「仕事や生活」していく上で
その場その場で最善の努力をして
後で悔いが残る事のないように
したいものです。



最後まで読んで頂きありがとうございます。


参考資料=Wikipedia

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長嶋茂雄の名言「終身打率にこだわっていない」を話題のタネに!

東京ドーム

最終更新日 2023年7月23日



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1、はじめに


終身打率にこだわっていません。
どこまで元気にやれるか
それだけです。

株式会社河出書房新社発行 
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録 より引用

この言葉は【長嶋茂雄】が引退する前年の
1973年のシーズン終了後の言葉です。


選手生活が終わりに近づいている時の
言葉で様々な思いが
込めらているのではないでしょうか。


この言葉の背景にはどのような事が
あったのか振り返っていきますので
参考にして下さい。


そして、
いつも明るい【長嶋茂雄】から
元気をもらいましょう。


長嶋茂雄
1973年の「読売巨人軍」
「9連覇」を達成したシーズンです

2、1973年の巨人



1973年の「読売巨人軍」
「9連覇」を達成したシーズンです。


この年の「巨人」
シーズンを通して投手陣の不調で
苦戦を強いられました。


特にその原因として前年26勝を上げ
「沢村賞」
「最優秀選手」
「最多勝利」
「最高勝率」
「ベストナイン」
新設された「ダイヤモンドグラブ賞」を
受賞し活躍が期待された
「堀内恒夫」の不調がありました。


また
「日拓ホームフライヤーズ
(現北海道日本ハムファイターズ)」
から期待されて移籍してきた
「高橋善正」も不調でした。
(結果的にはこのシーズンは、
わずか1勝止まり)


しかし「左のエース・高橋一三」や
「初めてローテーション入りした・
倉田誠」の
活躍があり結果的に
「堀内」「高橋」の
穴を埋めることができました。


打撃面では「王貞治」がこのシーズン
「打率.355 ホームラン51本 
打点114点」と
他の打者の追随を許さない大活躍で
「初の3冠王」を獲得し
ただ一人でチームを引っ張りました。


チーム全体では、前年も安定した戦いで
「8連覇」を達成し
「9連覇」を目指したシーズンでしたが
序盤戦から苦戦を強いられて
「オールスター戦」までは
1度もAクラスに入る事がなく、
Bクラスに甘んじていました。


「オールスター戦」後は「快進撃」が続き
8月~10月初めまで首位を守りました。


その後は「阪神タイガース」との
激しい首位争いを繰り広げ、
最終的にセ・リーグ優勝をしました。


この終盤戦で
今も語り草となっている
出来事がありました。
それは10月20日の
中日球場(現ナゴヤ球場)での
「中日ドラゴンズ対阪神タイガース」
の最終戦です。


この試合で「阪神」が勝てば
「優勝」に大きく近づき
翌10月21日の甲子園球場での
「巨人」戦に勝てば優勝
という「阪神」に
とっては大事な試合でした。


結果は「中日のエース星野仙一」
気迫のピッチングの前に
打線が抑え込まれ「4対2」で
「中日」が勝ちました。


この試合で「中日」がリードしている
(試合結果だったかも)
スコアボードを新幹線で
大阪に向かっている車窓から
「川上哲治監督」が見て喜んだと言う
「逸話」があります。


結局、この「中日戦」で
勝てなかった事が尾を引いて
甲子園球場では「巨人」が大差で勝ち
「セ・リーグ9連覇」を決めました。


なお、この試合後に「怒った阪神ファン」
グランドに乱入するという事件があり
「川上監督」の胴上げができませんでした。


その後の日本シリーズでは
「南海ホークス」に4勝1敗で勝ち
後楽園球場で「9連覇」を決め「川上監督」の
胴上げをすることができました。




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3、1973年の長嶋茂雄


1973年の【長嶋茂雄】
「コーチ兼任」の2シーズン目で
会社や団体などでいう
「中間管理職」として
自分のみならず選手達の結果が
要求される年でした。


【長嶋茂雄】の前年の成績は
打点、ホームランはまずまずの
結果が残せましたが
「打率は.266」とプロ入り最低の数字で
1973年は「勝負の年」
としてスタートしました。


しかしこの年は序盤から調子に乗れず
不調が続き
チームとしては「王貞治」に
頼る事になりました。


さらにこの年の「象徴的」なできごとが
10月11日に発生しました。


後楽園球場での阪神戦です。


ここで負ければ優勝は絶望的になる試合の
序盤、サードの守備中に打球を右手に
当ててしまい
(記録はエラー)
指を骨折してしまい退場を
余儀なくされました。


結果的には、この怪我により選手が
一丸となり
7対0の劣勢から10対10の
引き分けに持ち込み
勝ちに等しい引き分けとなりました。


この試合では怪我で退場し、
病院に行くまでの間
【長嶋茂雄】は控え選手に
檄を飛ばしました。


その選手からホームランが出るという
奇跡ともいえる試合となりました。


この辺りは
「長嶋茂雄の人間力」
成せるところではないでしょうか。


この怪我により
その後の試合は欠場を
余儀なくされました。


結局、個人打撃成績も芳しくなく、
特に打率は「.269」と
前年同様に低い数字でした。


打率が2年連続で3割を
マークできなかったことから
シーズン終了後に「川上監督」から
「生涯打率が3割を切らないうちに
現役を引退したほうが良い」
という勧告を受けました。


しかし【長嶋茂雄】はこの勧告を
受け入れずに
現役を続けることになります。


その時の言葉が
「終身打率にこだわっていません。
どこまで元気にやれるか
それだけです」
です。

長嶋
「川上監督」から
「生涯打率が3割を切らないうちに
現役を引退したほうが良い」
という勧告を受けました

4、おわりに


「終身打率にこだわっていません
どこまで元気にやれるかそれだけです」



この言葉からは
【長嶋茂雄】が野球が好きでたまらない
という思いが感じ取れます。


また、練習に裏付けされた自信から
まだ現役としてやれ
ファンに魅せる野球をし、
体が「ぼろぼろ」になるまで
続けたいという思いも感じ取られます。


この言葉を私たちが
仕事をしていく上で
仕事に関わるスキルを身につけ
常に向上心を持って勉強し
仕事に自信を持ち
「元気でやっていく」ようにと言う
【長嶋茂雄】からのエールだと受け取って
頑張っていこうではありませんか。




最後まで読んで頂きありがとうございます。



参考資料=Wikipedia

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長嶋茂雄の名言【管理職は野球ばかでは務まらない】!

ドーム

最終更新日 2023年7月6日



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1、はじめに

選手ならともかく、
監督とかコーチという管理職は
野球ばかでは務まらない。

株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
「長嶋茂雄 語録」より引用

この「名言」は1982年の言葉です。


1980年に
「読売巨人軍」の監督を解任され
浪人2年目の言葉です。


解任直後から世界中を駆け巡り
野球だけにとどまらず
「スポーツ全般」の
親善大使的な活動をしました。


また「現役引退」
即「監督就任」となり、
選手で17年、
監督で6年の合計23年間もの間
「厳しい勝負の世界」に
身を置いてきただけに
「いい息抜き」の時間だったのでしょう。


そんな「勝負の世界」から離れて
時間が過ぎてからの
「名言」なので
意味深さを感じます。


そこでこの
「名言」がでた背景から
迫っていきます。

プロ野球
解任直後から世界中を駆け巡り
野球だけにとどまらず
「スポーツ全般」の
親善大使的な活動をしました

2、監督解任の背景


1974年に「現役を引退」
監督に就任した1975年は
球団史上初の最下位
という不名誉な記録を
作ってしまいました。


その後1976年、1977年と
セリーグ制覇をしたものの
日本一にはなれず
1978年は2位、
1979年には5位に終わりました。


この年にロッテオリオンズに移籍した
「張本勲」は自分の著書で

「この年は、コーチ陣が
【長嶋茂雄】を見るのではなく
フロントを見て、
コーチ陣のまとまりがなく
チームが間違った方向に進んでいる」

と書いています。


こういう状況で
【長嶋茂雄】孤立
思うようにリーダーシップが
発揮できませんでした。


しかし、
チーム再建の情熱は冷めず、
自ら命名した
「シンデレラボーイ
(巨人の黄金期を知らない世代)
秋季キャンプに集めて
地獄のキャンプを行ないました。


「シンデレラボーイ」と呼ばれたのは
江川卓、西本聖、角三男、藤城和明、
鹿取義隆、山倉和博、中畑清、淡口憲治、
篠塚利夫、松本匡史
平田薫、山本功児、河埜和正他
18人の選手です。


後の「藤田元司監督」黄金時代の
主力選手で
現在でも野球史に残るような
名選手ばかりです。


1980年は彼らを中心に【長嶋茂雄】
一番の理解者「青田昇」
ヘッドコーチに迎え
巻き返しを図ろうとしました。


その矢先「青田昇」の「舌禍事件」が
発覚し辞任しました。


この頃から
【長嶋茂雄】バッシングが
徐々に起こり
V9という黄金時代を築いた
「川上哲治」の復帰を
期待する声も出始めました。


そして1980年のシーズン途中には
「川上哲治」を中心に
時期監督の話がもたれるようになり
シーズンが終わらないのに
【長嶋茂雄】の「解任」
決定しました。


世間では「川上哲治」グループの
陰謀による「解任」だと言われました。


この件により【長嶋茂雄】
「川上哲治」に対して
悪感情を持つようになったと
言われています。





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3、監督解任後


【長嶋茂雄】の辞任時の会見では


①成績が悪かった責任を取るという形で
辞任する


②選手やコーチが悪いのではなく全て
自分が悪い


③これまで野球に打ち込んできたので
自分の足元を見つめたい


④これまでの事を反省し、
これからの事をゆっくり考える


というようなことを言っています。


陰謀と言われる解任劇なのに、
不平不満を言わないのは
いかにも【長嶋茂雄】らしく
「器の大きさ」を感じます。


この後、
いわゆる「浪人生活」に入りますが
メディアを通して見る
【長嶋茂雄】
プロ野球しかも「常勝巨人」
選手、監督での
プレッシャーから解き放たれ
「生き生き」と
いかにも充実感のある様子が
うかがえました。


また、浪人中には複数の球団から
監督就任の依頼がありましが、
相変わらずの巨人に対する
強い思いから断り続けました。



長嶋茂雄
陰謀と言われる解任劇なのに、
不平不満を言わないのは
いかにも【長嶋茂雄】らしく
「器の大きさ」を感じます


4、名言の誕生



選手ならともかく、
監督とかコーチという管理職は
野球ばかでは務まらない。


この言葉は
自分自身の反省が
よく出ているのではないでしょうか。


選手として全力でプレーする事を
心掛けて
スーパースターとして引退し
そのままいきなり「監督」
という管理職に就いたための
「苦悩」
「反省」がよく表されています。


また「次のステップ」につながっていく
言葉なのではないでしょうか。



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5、おわりに



選手ならともかく、
監督とかコーチという管理職は
野球ばかでは務まらない。



この言葉と同じようなことが
仕事や生活をしていく上でも
あります。


管理職ともなれば
「自分の仕事」だけでは
務まりません。


その反面、
自分の理想を実現することも
できます。




そこで管理職として必要な事として



(1)リーダーシップを発揮する


①仕事やプロジェクトなどの目的を明確にし
部下に理解させる。


②部下が効率よくそれぞれの役目を
発揮できるように指導する。


③時には叱ったり、
激励することが必要です。


④いわゆる「王道」を選ぶ。



(2)部下の育成


①仕事時間の3割を部下の育成に
使うべきだとされています。


②部下を温かい目で見つめ、
公正に扱う。


③個性の強い部下には、
個性にあった仕事をさせる。


④一つ叱ったら、二つ褒める。



(3)先頭に立って仕事をする


①チームワークよく結束して
仕事ができるようにする。


②問題が発生した場合は、
第一に対策を考える。


③部下に積極的に声をかける。


以上のようなことが
必要ではないでしょうか。


このように見ていくと、
「プロ野球の監督、コーチ」も
「企業や団体の管理職」も
必要な事は同じであります。


これから「管理的」な事をされる方は

選手ならともかく、
監督とかコーチという管理職は
野球ばかでは務まらない。


を思い出して下さい。







最後まで読んで頂きありがとうございます。




参考書籍=株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
「長嶋茂雄 語録」




参考資料=WiKipedia


6、関連記事


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監督成績はこちらからどうぞ)


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長嶋茂雄の名言【野球で生活していく上でハッピーという言葉はない】!

ドーム

最終更新日 2023年7月3日



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1、はじめに

球で生活していく上において
ハッピーという言葉はない。
毎日が苦悩の世界です。

河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
「長嶋茂雄 語録」より引用

この「名言」
1974年の「伝説の引退試合」から
1週間後に発言されました。


現役引退し、
「ほっ」とした気持ちがある中で、
引き続き「読売巨人軍」
監督を引き受けた時の言葉なので
複雑な思いがこもった貴重な
「名言」です。


いつも明るくハッピーにさせてくれる
【長嶋茂雄】の発言とは
とても考えられません。


この「名言」の発言には、
どのような背景があったのか紹介します。


プロ野球
人前で苦悩や苦労を見せない

2、現役晩年の長嶋茂雄


【長嶋茂雄】が1958年入団から
1974年引退するまでの
17年間のプロ野球生活は
順風満帆のように見えます。


しかし、
必ずしも順風満帆ではありませんでした。
そのように見えたのは
「人前で苦悩や苦労を見せない」
というポリシーから
「努力は人の見ていない所」
でしていました。


特に「苦悩」があったのは現役晩年の
1972年から1974年ではないでしょうか。


この3年間の出場試合日数は
ほぼ全試合の125試合以上に出場して
ホームランや打点はそこそこですが、
打率は3割を打つ事が出来ず
打率のベスト10にも入る事が
出来なくなりました。


チームに関わる事では、
1971年にキャプテンに就任し
1972年からは、
バッティングコーチと兼任で
プレーすることにになり
その責務と立場上、
打てない時の「苦悩」
相当なものだったのでしょう。


2年連続で3割を切った
1973年のシーズンオフ
見るに見かねた「川上哲治監督」
【長嶋茂雄】
スーパースターとして
「生涯通算打率」が3割を切らない今
引退をした方がいいと
「現役引退」を勧めましたが
断り「現役続行」決めました。





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3、現役引退、監督就任


「現役続行」を決めた1974年は
打撃3部門全てでプロ入り以来
「最低」の成績でした。


まだまだ「現役続行」の強い決意で
臨んだシーズンでしたが

①目に見える打力の低下

②10連覇が消えた

③以前からあった監督就任要請を
断れきれなくなった

等の理由で「現役を引退」する事に
なりました。


その後11/21に「読売巨人軍監督」
就任しました。


キャッチフレーズに
「クリーンベースボール」を掲げ
「川上哲治監督」
「確率で勝つ野球」を離れ
投打共に「力で圧倒する野球」
目指しました。

長嶋
バックネット裏で勉強したり
コーチを経験したりして「段階」を踏んで
「監督に就任」したかった



4、名言の発言背景


1974年のシーズン後「現役引退」
「監督就任」となりましたが
【長嶋茂雄】の心中には
様々な葛藤がありました。


それは

「川上哲治前監督」にスタッフの人事や
選手のトレードを指示されたが却下した。


【長嶋茂雄】の本心は
「2,3年は現役を続けたかった」。


「現役引退後」バックネット裏で勉強したり
コーチを経験したりして「段階」を踏んで
「監督に就任」したかった。


という思いがあったからです。


このような背景の中


野球で生活していく上において
ハッピーという言葉はない。
毎日が苦悩の世界です。



「名言」の発言がありました。

長嶋
投打共に「力で圧倒する野球」
目指しました

5、おわりに


プロ野球選手は
「自分の好きな事」を仕事にできる
子どもが憧れる職業です。


私も「能力」があれば一番なりたかった
職業です。


傍からみれば
「うらやましい職業」にみえますが
厳しい練習をして
「勝負」に勝ち残らなければ
「即引退」という結果になります。


そのような「プロ野球界」
17年もの間スーパースターとして
身を置き
「現役引退」で一息つけると
思っていた矢先の「監督就任」
正に
「息つく暇もない」状態で発言された


野球で生活していく上において
ハッピーという言葉はない。
毎日が苦悩の世界です。



【長嶋茂雄】の心境をよく表した
言葉ではないでしょうか。


私たちも仕事や生活をしていく上で
「幸せだと思えない」時や
「苦悩の毎日」が続く時がありますが
【長嶋茂雄】には、到底及びません。


「幸せだと思えない」時や
「苦悩の日」が続くときは
【長嶋茂雄】のこの「名言」を思い出し
元気になって下さい。



最後まで読んで頂きありがとうございます。



参考書籍=株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
「長嶋茂雄 語録」
参考資料=WiKipedia



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