最終更新日 2023年5月17日
2020年1月17日「元祖ミスタードラゴンズ・高木守道」
急死のニュースを知り、大変ショックを受けました。
若いプロ野球ファンには、馴染みがないかもしれませんが、
オールドファンには、懐かしくよく知っている人物です。
現役時代は、「職人技・いぶし銀」などと称され、
無口な性格から「むっつり右門」とも呼ばれ、
中日ドラゴンズを常に引っ張ってきたところから
「ミスタードラゴンズ」と言われていました。
色々な思い出があるので、話が前後しますが、
どうしても私が伝えたい事、残したい事を書きます。
1、中日ドラゴンズ20年ぶりのセ・リーグ優勝
1974年(昭和49年)中日ドラゴンズは、
1954年(昭和29年)以来の20年ぶりの優勝をしました。
与那嶺要監督の下、チームが一丸となり
粘りの野球でペナントレースの終盤には、
連夜の逆転勝ち、サヨナラ勝ちで
「ミラクルドラゴンズ」と言われ、
読売巨人軍の10連覇を阻止しました。
もちろん一番の立役者は「高木守道」です。
一番印象に残っているのは、残り3試合で迎えた
神宮球場でのヤクルトスワローズ戦で、1点差で
敗戦濃厚だった9回表2アウトランナー3塁で出た
三・遊間への同点タイムリー。
この試合の勢いで
中日球場での大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)
とのダブルヘッダーに連勝して悲願の20ぶりの優勝
となりました。
ただこの年は、
「ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄」の引退で、
話題はこちらが中心でした。
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2、けがに泣いた現役時代
今でも悔やまれるのが、1968年巨人の堀内恒夫から受けた
顔面へのデッドボールです。
前年まで、3割を二度記録するなどバッティングの調子
が上がってきた矢先の事でした。
このデッドボールが影響し、打つときに一歩踏み出す事ができず、
何年もフォームが固まらず低迷していました。
それゆえ、このデッドボールがなければもっと成績が残せたのに
と悔やむ声をよく聞きました。
また、けがといえば、初の日本シリーズで、サヨナラヒットを
打ったり、先頭打者ホームランを打つなど大活躍だったのに
自打球を当て、負傷しその後の試合にも大きく影響したのが、
日本一なれなかった原因の一つでした。
3、監督時代
監督時代は、優勝はありませんでしたが、
何と言っても「10.8ナゴヤ決戦」
長嶋茂雄をして「国民的行事」と言わしめた
同率で最終戦を迎え、勝ったチームが優勝と言う
過酷な試合でしたが、結局「長嶋・巨人」が優勝し
ここでも主役になれず、「いぶし銀」のイメージで終わりました。
4、現役時代のエピソード
無口な「高木守道」ですが、あの「星野仙一」が俺より
気が短いと言わしめたのが「高木守道」です。
試合中に、頭にきて家に帰ってしまったことがあります。
また、「星野仙一」を叱ることができたのも「高木守道」
だけだったと言われています。
「高木守道」と言えば「元祖・バックトス」ですが、
誕生までには、ひたすらフェンス目掛けて「バックトス」
の練習をしました。
守備に対するこだわりもあり、「長嶋茂雄」が
簡単なゴロを難しく取るのに対して、
「高木守道」難しいゴロを簡単に取ると言われました。
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5、まとめ
中日ファンならだれもが歌う「燃えよドラゴンズ」
その歌が誕生したのが1974年。
その一番最初の歌詞が「一番・高木が塁に出て」です。
そうなんです「背番号1の高木守道」が一番なのです。
いつかはこういう日が来るとわかっていても寂しいです。
現役時代の姿が頭に浮かんできます。
私のつたない文章では、
すごさが伝わらないかもしれんませんが、
常に「打倒・巨人」を目指し、中日の一時代を築いた
「攻・走・守」三拍子揃った選手。
特に自分の名前である「守」は本当にしびれさせてくれました。
二塁手では、今でも日本プロ野球でNO1だと思っています。
目立たないけれど、すごい選手がいたことを忘れないでください。
「1回の裏中日ドラゴンズの攻撃は
1番セカンド高木守道・背番号1」
ご冥福をお祈りいたします。
高木守道・略歴
1960年:県立岐阜商業より中日ドラゴンズに入団
1963年:盗塁王
1965年:盗塁王 初の3割
1966年:2年連続3割
1973年:盗塁王
1974年:20年ぶりのセ・リーグ優勝に
貢献
1979年:3度目の3割
1980年:現役引退
通算成績:2282試合 2274安打
236本塁打 813打点
369盗塁 打率.272
ベストナイン:7回(2リーグ分裂後の二塁手では最多)
ゴールデングラブ賞:3回
1992年~1995年:第一期監督
2012年~2013年:第二期監督
監督の成績:719試合 354勝344敗21分け
勝率.507
(略歴の参考資料:2020年1月18日付・中日新聞)
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(高木守道、プロフィール・
選手、監督成績詳細は
こちらからどうぞ)
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一回目の監督は星野仙一の後任、二回目の監督は落合博満の後任、ということで「強いチームを弱くした監督」との批判が集まりがちな不運な監督のイメージがあります。私は高木守道さんの現役時代を知らない世代ですが、平成6年の10.8決戦はプロ野球史に語り継がれる試合です。やはり優勝決定が最終戦までもつれてこそ、プロ野球は面白いのです。
コメントを頂きありがとうございます。