最終更新日 2024年8月14日
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【glowing Academy】で、未来のスター選手を目指す!1、はじめに
「勝てば官軍、
負ければ賊軍なんです」
これは、
1979年の新年早々の言葉です。
この言葉の由来は、
1868年に起きた戊辰(ぼしん)戦争です。
薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)を
中心にした西郷隆盛率いる新政府軍と
徳川第15代将軍・徳川慶喜率いる
幕府軍が、
京都の鳥羽伏見の戦いを皮切りに、
五稜郭の戦いで幕府軍が敗れるまでの
戦争を戊辰戦争と言います。
この戦争により、
今まで官軍だった負けた幕府軍が、
賊軍になり
今まで賊軍だった勝った新政府軍が、
官軍となった事に
由来しています。
意味は、どんなことでも勝ったり、
強ければ何をやっても正義である
ことの例えです。
【長嶋茂雄】らしからぬ
過去から由来の言葉を使っています。
いったい何故このような
言葉が出たのか、
監督就任から発言があった
直近の1978年までのシーズンを
振り返り、確認していきます。
2、1975年~1978年の長嶋巨人
(1)1975年
1975年、球団史上初の最下位になり、
さすがの
「スーパースター・長嶋茂雄監督」にも、
罵声や批判の声が上がり、
心身共に疲れたシーズンになりました。
自身も、
「何をやってもうまくいかず
やられっぱなし、
結果が悪ければファンも天も見離す」と
言っていました。
ベンチ内でも、やり場のない怒りを
「物」にぶつけていました。
9連覇の後、2年連続で優勝を逃し、
正に「賊軍」のシーズンでした。
(2)1976年
1976年のシーズンは、
前年の屈辱から積極的に補強しました。
シーズン前半から、首位を独走しましたが、
ペナントレース終盤には、
阪神の猛追を受けて、
逆に阪神にマジックが点灯する
可能性もありました。
結果は巨人が最終戦で勝ち、
セ・リーグ優勝を決めました。
この時点では「どんな勝ち方」でも、
勝ったので「官軍」です。
日本シリーズでは阪急に
敗れてしまいましたが、
「常勝・巨人」が2年間、
セ・リーグ優勝がなかっただけに、
セ・リーグ優勝だけでも
「歓喜」のことでした。
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(3)1977年
1977年のシーズンは、
「カモ」のチームを2チーム作り、
2チームから21の貯金を作るなど、
圧倒的な強さで、
シーズン通して首位を走り続けました。
日本シリーズでは、またしても阪急に敗れ
日本一を逃しました。
(4)1978年
1978年のシーズンは、
日本シリーズに勝つための補強をして、
シーズンに臨みました。
シーズンを通して、
ほとんど首位にいましたが、
9月に入るとチームの勢いが急に失速し、
逆に勢いがでてきた、
ヤクルトが優勝しました。
結果的には2位に終わったものの、
巨人OBからは、
他チームを圧倒する戦力がありながら、
優勝できなかったのは
「長嶋の采配ミスで
長嶋茂雄の野球を見ていると、
野球を知らないのではないかと
思えることが、随所にあった」
との酷い発言もありました。
これをきっかけに「長嶋采配」への
批判が起こり始めました。
正に「負ければ賊軍」です。
この年の11月21日には、
翌日のドラフト会議を前の
「空白の1日」を巨人にとって
都合の良い解釈をして、
ドラフトNO1候補の江川卓を、
(やったもの勝ちの「勝てば官軍」で)
入団契約を強行しました。
これが「江川卓空白の1日事件 」の
始まりでした。
この「江川事件」や
「長嶋批判」が解決しないまま、
1979年になり
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
の発言につながりました。
3、おわりに
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
という言葉は、
【長嶋茂雄】とは思えない
オリジナリティのない言葉で、
めったに言わない愚痴にも
聞こえる言葉なので貴重です。
監督としての、
喜びと苦悩をよく表している
言葉です。
この言葉は、
普段から聞きなれている方も
多いと思いますが、
野球や他のスポーツだけでなく、
仕事や生活をしていく上でも
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
の「勝てば官軍」に当たる
「結果を残す」ことを
要求されることが多々あります。
しかし、その場合は
「結果さえ残せば良い」という考えで、
「結果」のみを重視すると反感を
買う場合がありますので、
仕事や生活をしていく上で
「勝てば官軍」になるためには、
プロセスを大事にして、
「結果を残したい」ものです。
最後まで読んで頂き有難うございます。
参考書籍:株式会社河出書房新社発行
編者:小林信也
発行者:小野寺優
長嶋茂雄語録
参考資料:ウィキペディア
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