最終更新日 2024年12月2日
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1、はじめに
「もうひとりの長嶋をつくりたい」
この名言は、
1980年9月初め頃の言葉です。
1975年に巨人の監督に就任し、
6年目のシーズンです。
1980年は、
結果的には「監督解任」になりますが、
この時点で既に、
裏で工作が行われていたかも
知れませんが、「監督解任」は
表に出ていませんでした。
したがってこの時点では、
これからの巨人のため、
日本プロ野球のために、
次のスーパースターである
「もうひとりの長嶋をつくる」
ための
使命感に燃えていたと思います。
この名言が出た背景を
監督就任中の6年間の
出来事で探っていきます。
特に「4番・サード」をつくるための
努力を振り返りたいと思います。
![長嶋](https://sirotaka.com/wp-content/uploads/2023/05/204aad7525e829bf9e96fd8391bbcc3f.jpeg)
2、長嶋監督の6年間
(1)監督1年目
(順位=最下位)
1974年10月14日現役引退すると、
休む間もなく、
11月21日には巨人の監督に
就任しました。
11月19日のドラフト会議では、
高校球界4天王の一人
「定岡正二」を指名しました。
後に【長嶋茂雄】の指導で
巨人の主力投手になりましたが、
この時点で人気は抜群でしたが、
実力は未知数でした。
監督1年目の1975年は、
コーチ陣を一新しましたが、
【長嶋茂雄】を筆頭に
「投、打、守」の主力が抜け
戦力は大幅にダウンしました。
特に「4番・サード・長嶋」が
抜けた穴は大きく、
開幕当初は「富田勝」でしたが、
打棒が振るわず、
4月18日には、現役メジャーリーガーの
「デーブ・ジョンソン」を獲得し、
サードを守りましたが、
本職がセカンドのため、
守備の負担から打撃不振となり、
シーズンを通しての活躍が
出来ませんでした。
監督1年目は、
「4番・サード」の必要性を
痛感した年ではないでしょうか。
(2)監督2年目
(順位=セ・リーグ優勝、日本一ならず)
監督2年目の1975年の
ドラフト会議では、将来の主力
「篠塚利夫(和典)・中畑清・山本功児」
を獲得しました。
1976年のシーズンは打撃面で
日本ハムから獲得した
「張本勲」がシーズン通して3番で活躍、
4番「王貞治」との二人で、
【長嶋茂雄】の穴埋めができました。
また、守備面では
「張本」がレフトを守ることにより、
レフトのレギュラーだった
「高田繁」がサードにコンバートされ、
ダイヤモンドグラブ賞を獲得し、
守備面でも
【長嶋茂雄】の穴埋めができました。
チームとしては、
セ・リーグ優勝ができましたが、
【サード・長嶋茂雄】の後釜という観点では、
一時しのぎの感が否めませんでした。
(3)監督3年目
(順位=セ・リーグ優勝、日本一ならず)
監督3年目の1976年の
ドラフト会議では、
将来の主力
「角三男(盈男)・松本匡史」を
獲得しました。
1977年のシーズンは、
圧倒的な強さでセ・リーグ2連覇。
しかし、日本シリーズではまたもや
阪急に敗れました。
内野手では、
ショートに「河埜和正」が
レギュラーとして台頭してきました。
また投手では、
ファンやマスコミの批判の中、
我慢して使い続けた
「新浦寿夫」が先発、抑えで
大活躍しました。
3番は張本、サードは高田が
1年を通して活躍しました。
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(4)監督4年目
(順位=2位)
1977年のドラフト会議では、
不動の捕手となる
「山倉和博」を獲得しました。
1978年のシーズンは、
8月までは順調に首位を走っていました。
9月に入ると取りこぼしが多くなり、
結果後半勢いの出た
ヤクルトが優勝しました。
2位であったとはいえ、
巨人OBから采配に対する批判が
渦巻きました。
3番張本、サード高田は順調でした。
1978年のシーズンオフには、
「江川卓・空白の1日事件 」が発生しました。
(5)監督5年目
(順位=5位)
前年の「江川事件」で、
ドラフト会議をボイコットしたため、
新人はドラフト外で獲得しましたが、
主力となったのは
「鹿取義隆」だけでした。
1979年のシーズンは、
「小林繁」が「江川」とのトレードで
阪神に移籍したことと、
主力選手の衰えが目立ち始めたことで、
戦力ダウンとなり、
セ・リーグ5位におわりました。
3番張本、サード高田も
出場機会が少なくなり始めました。
(6)監督6年目
(順位=3位)
1979年のドラフト会議では、
将来の主力「岡崎郁」を獲得しました。
またこのオフには、
「シンデレラボーイ」と呼ばれる
巨人のV9時代を知らない18人の
若手有望選手が、
「地獄の伊東キャンプ」で
鍛え上げられました。
18人の選手は、
投手:江川、西本聖、角、藤城和明、鹿取、
赤嶺賢勇
捕手:山倉、笠間雄二
野手:中畑、淡口憲治、篠塚、松本、
平田薫、山本、中司得三、
河埜、中井康之、二宮至
でした。
【長嶋茂雄】の今後のチーム作りが
窺われる人選でした。
1980年のシーズンは、
「江川、西本、定岡」の投手陣の
頑張りがあったものの、
張本の抜けた穴、王の衰えなどで、
打撃陣は不調で、
何とか3位で終わることができました。
このため、3番、4番を打てる打者を
作ることが急務となりました。
また、サードは中畑がこの年1年間、
守り抜きましたが、
レギュラーをつかんだとまでは
言えませんでした。
この時点で来シーズンには、
「もうひとりの長嶋をつくる」
青写真ができていたと思いますが、
「突然の監督解任劇」で実現できませんでした。
![長嶋](https://sirotaka.com/wp-content/uploads/2023/05/e9800721bf03ad17467cfff0c2531897.jpeg)
圧倒的な強さでセ・リーグ2連覇
3、おわりに
1975年から1980年の第一次長嶋政権は、
「4番サード」が抜けた
苦しい状況でのスタートでした。
監督として、選手のやり繰りに苦労し、
「常勝・巨人」の監督としては、
勝つことを采配の中心にしてきたため、
若手の成長が遅れてしまいました。
しかし、若手を育てることの必要性は、
【長嶋茂雄】が一番わかっていたはずです。
そんな中1979年のシーズンオフに行われた
「地獄の伊東キャンプ」は
若手を育てるための
本格的なスタートでした。
そのため1980年は、
若手を育てるための「我慢の采配」をして、
1981年には
「もうひとりの長嶋つくる」
自信があったのではないでしょうか。
それが第一次長嶋政権では、
実現しませんでした。
しかし時を経て、第二次長嶋政権では、
「松井秀喜の1000日計画」 で
「もうひとりの長嶋をつくる」
ことができました。
最後まで読んで頂き有難うございます。
参考資料:ウィキペディア
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