最終更新日 2024年9月11日
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1、はじめに
中日ドラゴンズの
「背番号8」といえば
【江藤慎一】が頭に浮かびます。
「背番号8」からエイトマンと
呼ばれ、
闘志あふれるプレーや、
豪快なフルスイングから
闘将とも呼ばれていました。
1960年代に中日の4番打者として、
全盛期の「巨人O・N」と
打撃を競い合っていました。
中日生え抜きの選手としては、
間違いなく
NO1のスラッガーだと思います。
今回は、
そのような【江藤慎一】について
紹介します。
2、江藤慎一とは
(1)家族思い
特に記憶に残っているのが、
弟の江藤省三を
高校(中京商業・現中京大中京)
大学(慶応大学)まで、
金銭面で世話をしていたことです。
(2)スラッガー
【江藤慎一】は肩が強く、
守備面でも魅せてくれましたが、
何と言っても打撃です。
中日在籍が「O・N」全盛時代
であったにもかかわらず、
常に打撃タイトル争いをして、
2年連続で首位打者になるなど、
常に闘志を剥き出しに
プレーしていました。
また、
オールスターゲームでは、
ONの後の5番を打つことが多く、
中日ファンの誇りでもありました。
(3)人となり
中日を追われるように退団し、
ロッテに入団した【江藤慎一】が、
トレードで大洋に移籍して、
古巣中日戦で中日球場を訪れた時は、
必ず、
中日ベンチに挨拶に来ていました。
複雑な思いがある中、
律儀な人だと思いました。
また、
中日の広報や通訳などを長く務めた
「足木敏郎」は、
豪快なプレーとは裏腹に
礼儀正しく、
繊細で誠実な人柄だったと
言っていました。
(4)考える野球
豪快で闘志あふれるプレーからは
想像できないのですが、
相手チームの先発ピッチャーを予測し、
過去数年間のデータをもとに、
打撃のシュミレーションをしていたと
言われています。
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3、中日退団
1969年中日は大物監督水原茂を
招聘しました。
その水原に対しての発言が、
反抗と取られてしまい、
トレード通告が出されました。
【江藤慎一】はもちろん、
中日ファンが猛烈に反対し、
抗議電話や署名運動が起こりました。
【江藤慎一】は中日で
骨を埋める覚悟でいたので、
トレードを拒否しました。
話は並行線のまま先に進みませんでした。
その間【江藤慎一】は、
水原の自宅を訪れ残留を直訴したとも
言われています。
結局、
【江藤慎一】の訴えは聞き入れられず、
1969年12月26日、任意引退選手に
なってしまいました。
中日ファンにとっては、
要望を受け入れられず
悲しく、
残念で、
悔しい結果となりました。
その後、
ロッテの濃人渉監督の計らいで、
川畑和人投手との交換トレードと
いう形で話がまとまりました。
水原茂が1974年の中日20年ぶりの
優勝の礎を築いたとはいえ、
この時点での中日は、
4番打者を失ってしまった大きな損失と
ファンの深い悲しみがありました。
4、おわりに
【江藤慎一】は
トレード通告を受けた後に
異例の抗議電話や
残留の署名運動が起こるなど、
中日ファンから深く愛されていました。
それは、
野球選手としての闘志あるプレーで
結果を残したこと以外にも、
その人柄にも魅力があったからだと
思います。
そんな【エイトマン・江藤慎一】は
今も私の記憶にくっきりと残っています。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
参考資料:ウィキペディア
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