最終更新日 2024年8月29日
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1、はじめに
【谷沢健一】は、
1970年当時の東京六大学最高の
通算打率3割6分の記録を引っ提げて
早稲田大学より
鳴り物入りで
「中日ドラゴンズ」に入団しました。
主砲の「江藤慎一」が抜け、
長距離砲が喉から手が出るほど
欲しかったので、
新人とはいえ、大きな期待を持っての
入団でした。
順風満帆に見えた選手生活でしたが、
陰では大学時代からのアキレス腱痛に
泣かされていましたが、
何とか庇ってプレーしていました。
それがついに、
悪化し歩くのにも困難になりました。
その後、
苦難の日々を送る【谷沢健一】は
「日本酒療法」と出会い、
アキレス腱痛を克服し
見事に復活します。
今回は、
このような【谷沢健一】を紹介をします。
2、5番谷沢がクリーンヒット
山本正之・作詞・作曲の
元祖「燃えよドラゴンズ」では、
「5番谷沢がクリーンヒット!」
と歌われています。
この歌のように【谷沢健一】の魅力は、
糸を引くようなライナーのヒットです。
アキレス腱痛の克服後、
ホームランが増えましが、
中距離砲として魅力がありました。
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3、谷沢健一2度の奇跡
(1)1976年・張本勲との
首位打者争いの奇跡
1976年【谷沢健一】は初の首位打者を
獲得します。
その獲得の仕方が凄まじく、
現在でも話題になることがあります。
この年の9月末の時点で、
首位打者争いは
「張本勲」
「若松勉(元ヤクルト)
【谷沢健一】の3人に絞られました。
とはいえ、
この時点で1位の張本との差は
約1分6厘。
若松との差は約1分5厘で、
簡単に追い越せる数字では
ありませんでした。
ところが10月に入ると
5割以上の驚異的な打率を残し、
「張本」との首位打者争いを
しました。
この争いは最終戦まで、
持ち越されました。
全ての日程を終えてた「張本」は
【谷沢健一】の結果を待つ
という状況でした。
【谷沢健一】は運命の最終戦、
10月19日のナゴヤ球場での
広島戦を迎えました。
この試合で
4打数3安打以上で首位打者になる
という状況だったので、
大方の見方は
「張本の首位打者確定」でしたが、
ファンは奇跡を信じていました。
当時「ナゴヤ球場の最終戦」は、
外野席が無料開放されていましたので、
私もこの試合を見るために、
ナゴヤ球場に向かいました。
入場門を入る少し前に大歓声が聞こえて
きたので「もしや?」と思い急ぎましたが、
これが首位打者を決定した
センター前のヒットでした。
その瞬間を見ることは
できませんでしたが
奇跡を信じ球場に足を運び、
良かったと思いましたし、
【谷沢健一】の凄まじさを感じました。
この時の「張本」との差は6糸(0.00006)で
史上最も小さい差でした。
(2)アキレスけん痛を克服し
奇跡の復帰
【谷沢健一】がアキレス腱痛で、
歩くのも困難で試合に出られなくなった
1978年の後半から、
1979年頃は「引退」するのでは?
と心配でした。
その間【谷沢健一】はアキレス腱痛を
克服するために全国の良いといわれる
治療法を試しましたが、
上手くいかず、苦難のどん底でした。
そんな中「藁尾もすがる」気持ちで
受けた治療が「日本酒療法」です。
日本酒療法とは:
日本酒を入れたお風呂に入り、
アキレス腱を入念にマッサージする
療法。
この話を聞いた時に「日本酒療法」で
本当に効果があるのか、心配でした。
しかし、こんな私の思いを
良い意味で裏切ってくれました。
治療院の先生と、
本人の「絶対に治す」と
いう強い思いと努力で
復活する日が来ました。
1979年のシーズン終盤のナゴヤ球場での
大洋ホエールズ戦(現横浜DeNA)に
代打での出場の場面が巡ってきました。
私はこの試合をラジオで聞いていましたが、
「バッター・谷沢・背番号41」
とアナウンスされると正に
「割れんばかり」の大声援になりました。
結果はどうでもいい!
バッターボックスに
「背番号41」が立ったことが、
ファンにとっては「最高の喜び」です。
そんな【谷沢健一】が、
この場合でも
ヒットを打ってくれて「奇跡の復活」を
ファンに魅せてくれました。
その後は特製のスパイクと
リラックスして打席に立つことを
心掛け
「アキレス腱痛克服」前よりも
チャンスに強いバッティングで、
好成績を残しチームにも貢献しました。
4、おわりに
いかがでしたか?
【谷沢健一】の紹介をしました。
紹介したように、
2度の奇跡を起こし、
ファンに希望を与えてくれた
【谷沢健一】を私は、
「ドラゴンズ史上・最強打者!」
だと思っています。
今も
「糸を引くようなライナーのヒット」が
頭に残っています。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
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