日本プロ野球の衝撃事件【江川卓・空白の1日事件】を紹介!

最終更新日 2024年1月29日



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1978年11月21日
驚きのニュースがありました。


後に【江川卓・空白の1日事件】
と呼ばれた、
【日本プロ野球】の歴史を変える
「大事件」の発生でした。


それは、高校野球、大学野球で
大活躍した「投手・江川卓」
「読売巨人軍」への
突然の入団発表でした。


前年のドラフト会議で
「クラウンライターライオンズ(現西武)
の1位指名に対して入団拒否をして、
「浪人生活」を送っていたので
11月22日「ドラフト会議」での指名を
待っていると思っていただけに、
信じられない出来事でした。


では何故こんなことができたのか?
その後、どのような結末になったのか?
を紹介します。


【日本プロ野球】史上
忘れることができない
「大事件」なので、
ぜひ知ってもらいたいと思い、
ここに紹介します。

野球
甲子園での平均奪三振は、
1試合14個で相手選手は
バットにボールを当てるのが
精いっぱいでした



(1)アマチュア時代の江川卓


巨人だけでなく他の多くの球団が
獲得したい「江川卓」
アマチュア時代を紹介します。


①高校時代

高校は作新学院でした。

怪物と言われ、
快速球とカーブを武器
にして、
公式戦で、ノーヒットノーラン9回、
パーフェクトゲーム2回、
1試合の平均被安打は、2.6本でした。



甲子園での平均奪三振は、
1試合14個で相手選手は
バットにボールを当てるのが
精いっぱい
でした。


1973年の「ドラフト会議」
「阪急ブレーブス(現オリックス)
に1位指名されるも
巨人入団希望のため入団拒否。


②大学時代

法政大学に入学し、
1年生からエースとして活躍。

1976年から1977までの
4連覇にエースとして貢献

2年生から4年生までの
3年連続で出場した
日米大学野球では
日本のエースとして活躍

1977年の「ドラフト会議」で
「クラウンライターライオンズ」
に1位指名されるも
巨人入団希望のため入団拒否。


③浪人時代

社会人野球に進むと、
2年はプロ入りできないため、
母校・作新学院の職員として
アメリカに野球留学をして
1978年の「ドラフト会議」で
巨人の指名を待つ。

この姿勢から、
当時は多くのプロ野球ファンは、
11月22日「ドラフト会議」
巨人が「江川卓」
引き当てるのを願っていました。



(2)空白の1日


1978年「ドラフトの目玉」
「江川卓」のはずでしたが、
「ドラフト会議」の前日11月21日
「空白の1日」となる解釈を
巨人と「江川卓」がして、
突然の入団発表となりました。

「野球規約」では
「江川卓」を前年指名した、
クラウンライターとの交渉は
11月20日に切れるため、
11月21日
「どの球団とも入団契約ができる」
という解釈からでした。







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(1)セリーグの対応


「江川卓」の巨人入団発表を受けて、
当時の「鈴木龍二セ・リーグ会長」は、
「ドラフト制度を否定する、
屁理屈の暴論」とし、
巨人から出されていた
「江川卓」の選手登録を却下しました。



(2)ドラフト会議


巨人は「ドラフト会議」を
ボイコットしました。



「江川卓」
「阪神タイガース」が
交渉権を獲得
しました。


③阪神からの指名のあいさつに対して、
「江川卓」側は、
「巨人の江川です。
話し合う必要はありません」

相手にさえしませんでした。

野球
「江川卓」
「阪神タイガース」が
交渉権を獲得
しました


【江川卓・空白の1日事件】は、
当初、巨人と「江川卓」の後見人で
国会議員の「船田中」との思惑に
「江川卓」が動かされていると
言われていました。


しかし、
その後何度も記者会見をするたびに、
「江川卓」したたかさがわかり、
ダーティーなイメージ
持つようになりました。


「江川卓」の記者会見では、
記者の質問をうまくかわされ、
イライラしている記者に対して、
「興奮しないで下さい」と、
当時「流行語」になった言葉を
発しています。


その後12月22日
問題が進展しました。



「金子鋭コミッショナー」から

①巨人は江川の身分を自由にする。

②江川はルール通り阪神と契約する。

③その後、阪神は江川を巨人に
トレードに出す。

④以上がおこなわれるのは、
2月1日のキャンプ以前が望ましい。

と言うコメントがありました。


これに対して非難がありましたが、
結局この通りにシナリオが進みました。


1979年1月31日
「江川卓」は阪神と契約、
背番号は「3」でした。


その後「江川卓」の相手が、
エース級の活躍をしていた
「小林繁」とわかると、
多くの巨人ファンが衝撃を受けました。


その後の「小林繁」の移籍会見では、

「同情はされたくない、
江川の犠牲で阪神に行くのではない、
阪神が戦力として欲しいと
言ってくれたから行くのです


と爽やかに話し、好感が持たれました。


その反面「江川卓」は、
よりダーティーなイメージ
なりました。


2月8日の「プロ野球実行委員会」で、
「小林繁」はキャンプから
阪神の一員になれるが、
「江川卓」巨人入りは
開幕以降
と発表されました。


これで【日本プロ野球界】
大きな波紋を巻き起こした、
【江川卓・空白の1日事件】
一応の終息となりました。




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自分たちに都合の良いように解釈し、
発生した【江川卓・空白の1日事件】は、
トレードという苦肉の策で、
一応の終息をしました。


これには納得が出来ませんでしたが、
阪神にトレードに出された
「小林繁」が、
1979年のシーズンは22勝9敗で
最多勝やベストナインに

選ばれるなど大活躍をして
溜飲が下がる思いをさせてくれました。


また、これには「小林繁」
意地を見せつけられ、
正に「無言の抵抗」が感じ取れました。




最後まで読んで頂き有難うございます。



参考書籍:ベースボールマガジン社発行
日本プロ野球事件史


参考資料:ウィキペディア











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