最終更新日 2024年8月24日
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1、はじめに
1975年はの【日本プロ野球】は
「読売巨人軍」が「長嶋茂雄監督」のもと、
球団創設以来、初の最下位。
また「広島東洋カープ」が球団創設以来、
初の優勝。
と言った話題の多い年でした。
しかし、広島の優勝の陰に隠れ、
忘れがちですが、
「衝撃事件」がありました。
それは広島ファンによる
「中日ドラゴンズ」の
選手に対する暴力事件です。
この事件がもとで
「セ・リーグ・2連覇」を
目指していた中日は、
主力選手の負傷欠場で、
優勝が出来ませんでした。
では、
どうしてこのような「大事件」が
起きたのでしょうか。
今後、
野球ファンが選手に暴力を
振るうという「暴挙」が
起こらないよう当時を振り返り
紹介します。
2、1975年の中日と広島
1975年の中日と広島の対戦は、
荒れるこが多く、
①広島市民球場での
広島対中日1回戦の9回表、
広島の投手「宮本幸信」が、
中日の打者「木俣達彦」への
カウント2-2からの
5球目のハーフスイングに
対する判定に激昂して、
主審の胸を足で蹴り上げて
退場処分になりました。
この試合後、
「中日の選手バス」が
100人位の広島ファンに襲撃され、
フロントガラスは割られ、
タイヤの空気を抜くという
「暴挙」があり、
中日の選手は身動きが取れなくなりました。
②5月11日には
「走塁妨害」の判定をめぐる騒動から
試合終了後、300人位の広島ファンが、
球場正面に押しかけて「投石」したため、
危険なため中日選手が外に出られず、
缶詰にされました。
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3、1975年9月10日
(1)試合中
この日の試合も荒れ気味でした。
中日先発の「星野仙一」は、
3つのデッドボールを与え、
雰囲気が悪くなっていました。
5対2と負けていた広島が、
9回の裏に反撃に出ます。
2点を返して5対4として、
「星野仙一」をマウンドから
引き下ろします。
変わった「鈴木孝政」から
「山本浩二」がセンター前にヒット、
セカンドランナーの
「二村敏之」がホームを突いたところ、
センターの「ローン・ウッズ」の返球が、
キャッチャーの「新宅洋志」の
ミットに収まりました。
しかし、
返球がややそれたたため、
「新宅洋志」のミットが
滑り込まなかった「三村敏之」の
左頬を殴るようにとらえてしまいました。
ここで乱闘となりましたが、
その場はすぐに収束し試合続行。
その後、
広島は点を上げる事が出来ず、
5対4で負けました。
(2)試合終了後
しかし試合終了後、
広島ファンが次々と
フェンスを乗り越えて、
グランドに乱入して来ました。
そこで中日の選手や
コーチに襲いかかり、
「殴る蹴るの暴挙」。
広島の選手も、
この異常事態に必死で
中日の選手やコーチを守りました。
特に、
「ゲイル・ホプキンス」、
「リッチー・シェーンブラム」の
二人の外国人選手が
ベンチ裏に通じるドアの前に立ちはだかり、
「暴徒」たちを
立ち入らせなかったことが、
被害を少なくすることに繋がりました。
その後も、球場正面に
広島ファン約2000人が集まり、
大混乱しました。
この「暴挙」で
中日の選手がに10人以上の負傷者が出て、
次の試合からチームの勢いが
失速してしまいました。
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4、おわりに
「広島ファン暴発事件」は、
ファンが選手に暴力をふるうという
前代未聞の事件で
決して忘れることが出来ません。
この事件後中日ファンの間では
「仕返し」をするという
怖ろしい話もありましたし、
この事件で、
中日の主力選手が試合に出られなくなり、
中日の勢いがなくなり
優勝を逃したことが悔しくてたまらなかった
中日ファンも多数いました。
逆に、
広島の選手が「体を張って」
中日の選手を守ってくれたことには、
感動しました。
なお翌9月11日の試合は
「自主警備に自信が持てない」
ということで、中止になりました。
これ以後、
このような暴挙はありませんが、
絶対に繰り返してはいけない行為です。
今後も
「選手が安心して全力でプレーし、
ファンにいいプレーを見せる」
ことが出来るよう、
マナーを守って楽しい野球観戦を
したいものです。
最後まで読んで頂き有難うございます。
参考書籍:ベースボールマガジン社発行
日本プロ野球事件史
参考資料:ウィキペディア