【日本プロ野球】の衝撃事件「広島市民球場、ファン暴発事件」を紹介します。

最終更新日 2022年5月26日

目次

1、はじめに


2、1975年の中日と広島


3、1975年9月10日


4、おわりに

1、はじめに


1975年はの【日本プロ野球】
「読売巨人軍」が「長嶋茂雄監督」のもと、
球団創設以来、初の最下位。

また「広島東洋カープ」が球団創設以来、初の優勝。
と言った話題の多い年でした。

しかし、広島の優勝の陰に隠れ、
忘れがちですが、「衝撃事件」がありました。

それは広島ファンによる
「中日ドラゴンズ」の選手に対する暴力事件です。

この事件がもとで「セ・リーグ・2連覇」を
目指していた中日は、主力選手の負傷欠場で、
優勝が出来ませんでした。

では、どうしてこのような「大事件」が起きたのでしょうか。
今後、野球ファンが選手に暴力を振るうという
「暴挙」が起こらないよう当時を振り返り紹介します。




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2、1975年の中日と広島


1975年の中日と広島の対戦は、
荒れるこが多く、

①広島市民球場での広島対中日1回戦の9回表、
広島の投手・宮本幸信が、
中日の打者・木俣達彦へのカウント2-2からの
5球目のハーフスイングに対する判定に激昂して、
主審の胸を足で蹴り上げて退場処分になりました。

この試合後、「中日の選手バス」
100人位の広島ファンに襲撃され、
フロントガラスは割られ、
タイヤの空気を抜くという「暴挙」があり、
中日の選手は身動きが取れなくなりました。

②5月11日には「走塁妨害」の判定をめぐる騒動から
試合終了後、300人位の広島ファンが、
球場正面に押しかけて「投石」したため、
危険なため中日選手が外に出られず、
缶詰にされました。




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3、1975年9月10日


この日の試合も荒れ気味でした。

中日先発の「星野仙一」は、3つのデッドボールを与え、
雰囲気が悪くなっていました。

5対2と負けていた広島が、9回の裏に反撃に出ます。
2点を返して5対4として、
「星野仙一」をマウンドから引き下ろします。

変わった「鈴木孝政」から「山本浩二」が
センター前にヒット、
セカンドランナーの「二村敏之」がホームを突いたところ、
センターの「ローン・ウッズ」の返球が、
キャッチャーの「新宅洋志」のミットに収まりました。

しかし、返球がややそれたたため、「新宅洋志」のミットが
滑り込まなかった「三村敏之」の
左頬を殴るようにとらえてしまいました。

ここで乱闘となったが、その場はすぐに収束し試合続行。
その後、広島は点を上げる事が出来ず、
5対4で負けました。

しかし試合終了後、
広島ファンが次々とフェンスを乗り越えて、乱入しました。

そこで中日の選手やコーチに襲いかかり、
「殴る蹴るの暴挙」

広島の選手も、
この異常事態に必死で中日の選手やコーチを守りました。

特に、
「ゲイル・ホプキンス」、「リッチー・シェーンブラム」の
二人の外国人選手がベンチ裏に通じるドアの前に立ちはだかり、
「暴徒」たちを立ち入らせなかったことが、被害を少なくする
ことに繋がりました。

その後も、球場正面に広島ファン約2000人が集まり、
大混乱しました。

この「暴挙」で中日の選手がに10人以上の負傷者が出て、
次の試合からチームの勢いが失速してしまいました。

4、おわりに


「広島ファン暴発事件」は、
ファンが選手に暴力をふるうという前代未聞
事件で決して忘れることが出来ません。

この事件後中日ファンの間では「仕返し」をするという
怖ろしい話もありましたし、
この事件で、中日の主力選手が試合に出られなくなり、
中日の勢いがなくなり優勝を逃したことが悔しくてたまらなかった
中日ファンも多数いました。

逆に、広島の選手が「体を張って」、
中日の選手を守ってくれたことには、感動しました。

なお翌9月11日の試合は「自主警備に自信が持てない」ということで、
中止になりました。

これ以後、このような暴挙はありませんが、
絶対に繰り返してはいけない行為です。

今後も「選手が安心して全力でプレーし、
ファンにいいプレーを見せる」ことが出来るよう、
マナーを守って楽しい野球観戦をしたいものです。

最後まで読んで頂き有難うございます。

参考書籍:ベースボールマガジン社発行
日本プロ野球事件史

参考資料:ウィキペディア






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