最終更新日 2024年9月9日
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1、はじめに
1985年の日本プロ野球ドラフト会議の
目玉は
PL学園エース・桑田真澄
PL学園4番・清原和博でした。
2人は「K・Kコンビ」と呼ばれ、
高校1年の夏、
甲子園で鮮烈なデビューをし、
常に注目を浴びながらも、
結果を残し、
1985年11月20日の
ドラフト会議を迎えました。

桑田も清原も巨人ファンでした
2、運命のドラフト会議
ドラフト会議を迎える時点で、
桑田も清原も巨人ファンでした。
ただ、早い時期から桑田は
早稲田大学への進学を決めていました。
清原は巨人からの指名を
待つだけの状況でした。
問題は、
清原に複数団の指名が予想され、
巨人が晴れて選択権を
引き当てるか否かが、
ドラフト会議の焦点でした。
しかし、
桑田を巨人が単独指名しました。
清原は、
南海、
日本ハム、
中日、
近鉄、
西武、
阪神の6球団が指名し、
西武が交渉権を獲得しました。
事前に、
巨人と清原との間で、
1位指名の確約がされていたとも
噂されていた清原は、
巨人が桑田を指名したことを知り、
大粒の涙を流していました。
子供の頃から憧れていた王貞治が
巨人の監督だっただけに、
裏切られた思いが強かったと
言われています。
また、桑田に対しては恨む思いが
あったとも言われていました。
巨人に指名された桑田は、
指名を拒否すると思われていましたが、
「昔から巨人に入団したかった」と
前向きな発言をして、
3日後には、
早稲田大学への進学をやめる
発言があり、
世間は大騒ぎになりました。
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3、桑田が巨人、清原が西武に入団
(1)桑田巨人入り
結局、
桑田は巨人に入団し、
清原は、交渉権を獲得した西武に
入団しました。
桑田の巨人入団に際しては、
密約説も噂され、
爽やかなイメージだった桑田に、
ダーティーなイメージが残りました。

清原は、交渉権を獲得した西武に
入団しました
(2)清原西武入団
その後、
1987年に清原が入団した西武と、
王監督が率いる巨人が日本シリーズで、
対戦し、
4勝2敗で西武が日本一になりました。
その日本シリーズの最終戦の、
試合終了間際に、
ファーストを守っていた清原が、
大粒の涙を流し始めました。
この涙は、
1985年のドラフト会議での悔しさの
何よりの証明だと言われました。
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4、おわりに
毎年、
ドラフト会議では、
悲喜こもごものシーンがありますが、
桑田と清原の明と暗は衝撃的でした。
しかし、
時が衝撃を薄めてくれました。
清原はその後、FA権を取得し、
1997年のシーズンから、
憧れの巨人のユニフォームに
袖を通すことができ、
桑田と再びチームメイトになり、
「K・Kコンビ」が復活しました。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
