最終更新日 2024年2月2日
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1、はじめに
1980年代の中日ドラゴンズの
キャッチャーとして活躍した選手に
【中尾孝義】がいました。
走攻守3拍子揃ったキャッチャーで、
それまでのキャッチャーの概念を
変えた選手でもあります。
機敏な動きでファンから愛された
【中尾孝義】を紹介します。
![プロ野球](https://sirotaka.com/wp-content/uploads/2020/07/73be763fea175ebc60bffa3e91549533.jpeg)
走攻守3拍子揃ったキャッチャー
2、中尾孝義とは
(1)一休さん
【中尾孝義】のトレードマークは、
つばと耳当てのない
丸型のキャッチャー用ヘルメットです。
日本のキャッチャーで
最初に取り入れたのが【中尾孝義】です。
そのヘルメットをかぶり、
顔も童顔で、動きが機敏だったので、
「一休さん」と呼ばれていました。
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(2)研究熱心
1980年のドラフト会議で
入団を希望していた「中日」から
1位指名を受け
翌1981年に入団しました。
その当時の正捕手は「木俣達彦」で
バッティングがいいので、
レギュラー取りは難しいと
言われていました。
入団早々木俣の守備の
弱点を調べ上げ、
守備を磨き1年目でレギュラーを
奪取しました。
![野球](https://sirotaka.com/wp-content/uploads/2020/08/310ff1e2db08b022759da415974ea299.jpeg)
つばと耳当てのない
丸型のヘルメットです
(3)ケガに泣く
【中尾孝義】は、
キャッチャーとしてのセンスは
抜群ですが、
小柄で線が細いので、
キャッチャーの重労働に耐える
ことが難しかったのか、
入団3年目以降は
毎年100試合未満の出場にとどまり、
1988年には「外野」コンバートされました。
このケガが克服できれば、
キャッチャーとして中日の
ホームベースを長期にわたって
守ることができたのではないかと
思い非常に残念です。
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![](http://image.moshimo.com/af-img/4472/000000064575.png)
3、おわりに
【中尾孝義】の紹介をしました。
1988年セリーグ優勝の年に
巨人・西本聖とのトレードは
ショックでした。
1988年はコーチとの軋轢もあり
外野へコンバートされ、
キャッチャーは「中村武志」に
譲ることになりました。
そんなことから、
「もしかしたらトレードかも」
と思ってはいましたが、
いざ実現するとやはりショックでした。
巨人では「キャッチャー」としての
出場が多くなりそうだったので、
本人にとっては
いいトレードだったと思い
納得しました。
トレード後は不遇な面もあったようですが、
日本の「キャッチャー像」を
変えた選手としていつまでも
私の記憶に残っています。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
参考資料:ウィキペディア
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