【元中日ドラゴンズ・江藤慎一】のプロフィール、選手・監督成績

最終更新日 2022年9月26日

目次


1、はじめに


2、江藤慎一プロフィール


3、選手・監督成績


4、おわりに


5、関連記事

a man swinging the baseball bat
Photo by Mark Milbert on Pexels.com

1、はじめに


中日ドラゴンズ生え抜きで
最強の4番打者は?
と聞かれたら
年代によって色々な選手の名前が
上がると思いますが、
私は【江藤慎一】と答えます。

私の頭の中には、
チャンスに強く頼りになる4番打者として、
記憶に残っています。

今回は、
記憶だけでなく成績も素晴らしい
【江藤慎一】のプロフィールと
選手・監督成績を紹介します。





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2、江藤慎一プロフィール


1937年10月6日:福岡県北九州市生まれ

1953年4月:熊本商業高校入学

1956年3月:熊本商業高校卒業

1956年4月:日鉄二瀬野球部にテスト生として入部


1959年:中日ドラゴンズ入団

1959年4月11日:中日球場の大洋戦で、
初出場・初スタメン

1959年4月11日:中日球場の大洋戦で、
初安打・初打点

1959年4月15日:後楽園球場の巨人戦で、
初ホームラン

1961年:ベストナイン

1963年:ベストナイン

1964年4月5日:中日球場の阪神戦で、
プロ入り通算100号ホームラン

1964年:.323で首位打者

1964年:ベストナイン

1965年:.336で首位打者

1965年:ベストナイン

1966年5月3日:後楽園球場の巨人戦で、
プロ入り通算150号ホームラン

1966年6月26日:川崎球場の大洋戦で、
プロ入り通算1000本安打

1966年8月4日:中日球場の巨人戦で、
プロ入り通算1000試合出場

1966年:ベストナイン

1967年9月19日:後楽園球場の巨人戦で、
プロ入り通算200号ホームラン

1968年:ベストナイン

1969年5月25日:中日球場の巨人戦で、
プロ入り通算250号ホームラン

1970年:ロッテに移籍

1970年8月16日:小倉球場の西鉄戦で、
プロ入り通算1500本安打

1971年4月29日:大阪球場の南海戦で、
プロ入り通算1500試合出場

1971年8月5日:東京球場の東映戦で、
プロ入り通算300号ホームラン

1971年:.337で首位打者

1971年:.408で最高出塁率

1972年:大洋に移籍

1972年7月16日:青森県営野球場の広島戦で、
プロ入り通算1000打点

1973年5月26日:川崎球場の巨人戦で、
プロ入り通算3000塁打

1974年9月23日:川崎球場のヤクルト戦で、
プロ入り通算350号ホームラン

1975年:太平洋クラブ移籍で、
プレーイングマネジャー


1975年8月27日:平和台球場の日本ハム戦で、
プロ入り通算2000試合出場

1975年9月6日:藤井寺球場の近鉄戦で、
プロ入り通算2000本安打

1976年:ロッテに移籍

1976年:現役引退

baseball player running on court
Photo by Pixabay on Pexels.com

3、選手・監督成績

年度球団試合打率本塁打打点
1959中日130.2811584
1960中日130.2521461
1961中日130.2672077
1962中日133.2882361
1963中日140.2902570
1964中日140.3232172
1965中日129.3362974
1966中日102.3212691
1967中日132.2773478
1968中日131.3023693
1969中日119.2802584
1970ロッテ72.2881131
1971ロッテ114.3372591
1972大洋103.2501851
1973大洋111.2821544
1974大洋111.2911667
1975太平洋88.228836
1976ロッテ69.229624
18年2084.2873671189
江藤慎一選手成績

年度チーム試合引分勝率順位
1975太平洋130586210.4833位
江藤慎一監督成績







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4、おわりに


【江藤慎一】
プロフィール、選手・監督成績を紹介しました。

中日在籍中の11年間は、
素晴らしい成績でチームを引っ張り
常にAクラス入りに貢献しました。

そのイメージがあるので、
成績以上に頼りになる4番でした。

中日時代の【江藤慎一】は、
私にとって記録にも、記憶にも残る
選手でした。

だから、
かつて中日ドラゴンズに
【江藤慎一】というスラッガーが
いたことを知って頂きたいと思い
紹介しました。



最後まで読んで頂きありがとうございます。



参考資料:ウィキペディア






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5、関連記事


中日ドラゴンズ名選手列伝
【エイトマン・闘将・江藤慎一】
はこちらからどうぞ













中日ドラゴンズ名選手列伝【エイトマン・闘将・江藤慎一】

最終更新日 2022年9月26日

目次


1、はじめに


2、江藤慎一とは


3、中日退団


4、おわりに


5、関連記事

aerial view of sports stadium during daytime
Photo by Tim Gouw on Pexels.com

1、はじめに

中日ドラゴンズの「背番号8」といえば
【江藤慎一】が頭に浮かびます。

「背番号8」からエイトマン
呼ばれ、
闘志あふれるプレーや、
豪快なフルスイングから
闘将とも呼ばれていました。

1960年代に中日の4番打者として、
全盛期の「巨人O・N」と
打撃を競い合っていました。

中日生え抜きの選手としては、
間違いなく
NO1のスラッガーだと思います。

今回は、そのような【江藤慎一】について
紹介します。





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2、江藤慎一とは

(1)家族思い

特に記憶に残っているのが、
弟の江藤省三を
高校(中京商業・現中京大中京)
大学(慶応大学)まで、
金銭面で世話をしていたことです。


(2)スラッガー

【江藤慎一】は肩が強く、
守備面でも魅せてくれましたが、
何と言っても打撃です。

中日在籍が「O・N」全盛時代
であったにもかかわらず、
常に打撃タイトル争いをして、
2年連続で首位打者になるなど、
常に闘志を剥き出しにプレーしていました。

また、
オールスターゲームでは、
ONの後の5番を打つことが多く、
中日ファンの誇りでもありました。


(3)人となり

中日を追われるように退団し、
ロッテに入団した【江藤慎一】が、
トレードで大洋に移籍して、
古巣中日戦で中日球場を訪れた時は、
必ず、中日ベンチに挨拶に来ていました。

複雑な思いがある中、
律儀な人だと思いました。

また、
中日の広報や通訳などを長く務めた
「足木敏郎」は、豪快なプレーとは裏腹に
礼儀正しく、繊細で誠実な人柄だったと
言っていました。


(4)考える野球

豪快で闘志あふれるプレーからは
想像できないのですが、
相手チームの先発ピッチャーを予測し、
過去数年間のデータをもとに、
打撃のシュミレーションをしていたと
言われています。

white baseball ball on brown leather baseball mitt
Photo by Steshka Willems on Pexels.com

3、中日退団


1969年中日は大物監督水原茂を
招聘しました。

その水原に対しての発言が、
反抗と取られてしまい、
トレード通告が出されました。

【江藤慎一】はもちろん、
中日ファンが猛烈に反対し、
抗議電話や署名運動が起こりました。

【江藤慎一】は中日で
骨を埋める覚悟でいたので、
トレードを拒否しました。

話は並行線のまま先に進みませんでした。

その間【江藤慎一】は、
水原の自宅を訪れ残留を直訴したとも
言われています。

結局、
【江藤慎一】の訴えは聞き入れられず、
1969年12月26日、任意引退選手に
なってしまいました。

中日ファンにとっては、
要望を受け入れられず
悲しく、
残念で、
悔しい結果となりました。

その後、
ロッテの濃人渉監督の計らいで、
川畑和人投手との交換トレードと
いう形で話がまとまりました。

水原茂が1974年の中日20年ぶりの
優勝の礎を築いたとはいえ、
この時点での中日は、
4番打者を失ってしまった大きな損失と
ファンの深い悲しみがありました。





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4、おわりに

【江藤慎一】
トレード通告を受けた後に
異例の抗議電話や
残留の署名運動が起こるなど、
中日ファンから深く愛されていました。

それは、
野球選手としての闘志あるプレーで
結果を残したこと以外にも、
その人柄にも魅力があったからだと
思います。

そんな【エイトマン・江藤慎一】
今も私の記憶にくっきりと残っています。



最後まで読んで頂きありがとうございます。



参考資料:ウィキペディア



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5、関連記事


【元中日ドラゴンズ・江藤慎一】の
プロフィール、選手・監督成績は
こちらからどうぞ




【日本プロ野球衝撃の事件】史上初サヨナラホームランに代走!

最終更新日 2022年8月23日

目次


1、はじめに


2、延長10回の悲劇


3、ホームランに代走


4、おわりに

飲み物片手に応援

1、はじめに


プロ野球の花形「ホームラン」
そのホームランの中でも
「サヨナラホームラン」は、
打った本人は最高の気分で
ファンと選手たちに迎えられ、
歓喜のホームインとなります。

しかし、
サヨナラホームランを打ちながら、
歓喜のホームインができずに、
代走が送られたという試合がありました。

悲劇の主役は、
中日ドラゴンズ・彦野利勝
です。

今回は、
このサヨナラホームランを紹介します。




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2、延長10回の悲劇


悲劇が起きたのは、
1991年6月18日ナゴヤ球場での
中日対横浜大洋です。

6対6で迎えた
延長10回ツーアウトランナーなしで、
打席には、
中日6番の彦野利勝が入りました。

横浜大洋のピッチャー盛田幸妃から
放った打球はレフトスタンドへ
一直線のサヨナラホームランになりました。

ライナー性の打球のため1塁まで全力疾走し、
1塁ベースを踏んだところで、
ホームランだとわかり、
喜びを表すガッツポーズをし、
ジャンプをしました。

その瞬間に、
着地に失敗して、
右ひざをひねり、
倒れ込んでしまい、
起き上がることができませんでした。

ヒーローを出迎えようと、
ベンチから飛び出したナインは、
倒れ込んだままのヒーローに
一体何が?
歓喜が一瞬止まってしまいました。

結局、起き上がることの出来ない
彦野利勝には日本プロ野球初となる
サヨナラホームランに代走が
送られることになりました。

代走には、山口幸司が送られましたが、
初めてのケースで戸惑いながら
ホームを踏みました。

悲劇のヒーロー彦野利勝は
大豊泰昭におんぶされベンチに戻りました。

中日ファンにとっては、
一瞬の歓喜の後におとずれた、
ショッキングな出来事でした。

彦野利勝のけがは
当初ねん挫と診断されましたが、
その後の検査で右膝じん帯断裂とわかり、
このシーズンを棒に振ってしまいました。

勝利の瞬間

3、ホームランに代走


サヨナラホームランに
代走が送られたのは、
彦野利勝が日本プロ野球史上初ですが、
ホームランに代走が出たケースは
過去にありました。

1969年に近鉄のジムタイルが
ホームランを打ちながら、
1塁ベース手前で、
左足が肉離れを起こし、
走れなくなり、
代走の伊勢孝夫がベースを
1周したケースがあります。


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4、おわりに


サヨナラホームランを打ち、
ナインの祝福の出迎えを受けるはずが
出来なかった悔しさは私では
計り知れません。

しかし、
彦野利勝が後日、
「一塁を回ったところで、右膝がガクッときた
もっとゆっくり走ればよかった」と
語った言葉に全ての気持ちが
表われているのではないでしょうか。


最後まで読んで頂きありがとうございます。


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【日本プロ野球衝撃の事件】桑田、清原ドラフト会議の明暗!

最終更新日 2022年8月22日


目次


1、はじめに


2、運命のドラフト会議


3、桑田が巨人、清原が西武に入団


4、おわりに

高校球児の聖地・甲子園

1、はじめに

1985年の日本プロ野球ドラフト会議の
目玉は
PL学園エース・桑田真澄
PL学園4番・清原和博でした。

2人は「K・Kコンビ」と呼ばれ、
高校1年の夏、
甲子園で鮮烈なデビューをし、
常に注目を浴びながらも、
結果を残し、
1985年11月20日の
ドラフト会議を迎えました。





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2、運命のドラフト会議


ドラフト会議を迎える時点で、
桑田も清原も巨人ファンでした。

ただ、早い時期から桑田は
早稲田大学への進学を決めていました。

清原は巨人からの指名を待つだけの状況でした。

問題は、清原に複数団の指名が予想され、
巨人が晴れて選択権を引き当てるか否かが、
ドラフト会議の焦点でした。

しかし、
桑田を巨人が単独指名しました。

清原は、
南海、
日本ハム、
中日、
近鉄、
西武、
阪神の6球団が指名し、
西武が交渉権を獲得しました。

事前に、
巨人と清原との間で、
1位指名の確約がされていたとも
噂されていた清原は、
巨人が桑田を指名したことを知り、
大粒の涙を流していました。

子供の頃から憧れていた王貞治が
巨人の監督だっただけに、
裏切られた思いが強かったと
言われています。

また、桑田に対しては恨む思いが
あったとも言われていました。

巨人に指名された桑田は、
指名を拒否すると思われていましたが、
「昔から巨人に入団したかった」と
前向きな発言をして、
3日後には、
早稲田大学への進学をやめる
発言があり、
世間は大騒ぎになりました。




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3、桑田が巨人、清原が西武に入団


結局、
桑田は巨人に入団し、
清原は、交渉権を獲得した西武に
入団しました。

桑田の巨人入団に際しては、
密約説も噂され、
爽やかなイメージだった桑田に、
ダーティーなイメージが残りました。

その後、
1987年に清原が入団した西武と、
王監督が率いる巨人が日本シリーズで、
対戦し、
4勝2敗で西武が日本一になりました。

その日本シリーズの最終戦の、
試合終了間際に、
ファーストを守っていた清原が、
大粒の涙を流し始めました。

この涙は、
1985年のドラフト会議での悔しさの
何よりの証明だと言われました。

桑田・清原がプレーした東京ドーム

4、おわりに


毎年、
ドラフト会議では、
悲喜こもごものシーンがありますが、
桑田と清原の明と暗は衝撃的でした。

しかし、時が衝撃を薄めてくれました。

清原はその後、
FA権を取得し、
1997年のシーズンから、
憧れの巨人のユニフォームに
袖を通すことができ、
桑田と再びチームメイトになり、
「K・Kコンビ」が復活しました。




最後まで読んで頂きありがとうございます。





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【中日ドラゴンズ】名選手列伝・番外編「伝説のスカウト・法元英明】

最終更新日 2022年5月2日

目次


1、はじめに


2、入団前に関わった主な選手


3、おわりに

憧れの甲子園

1、はじめに

かつて【中日ドラゴンズ】にも、
二刀流がいました。

1956年~1957年の2年間で、
特筆すべき成績ではありませんでした。

その男の名前は
【伝説のスカウト・法元英明】です。

選手時代よりも、
スカウトになってからの実績が
素晴らしいので「名選手列伝・番外編」として、
【法元英明】を紹介します。





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2、入団前に関わった主な選手

 

松本幸行(まつもと・ゆきつら)
投手・デュプロ印刷より
1969年ドラフト4位で入団

法元英明スカウト第一号の選手
所属のデュプロ印刷に
挨拶なしの指名のため
ひと悶着あっての入団。



三沢淳(みさわ・じゅん) 
投手・新日鉄広畑より
1970年ドラフト3位、翌年入団

1970年入団拒否で、
新日鉄広畑に入社
1年間の説得後、
1971年ドラフト前に入団。



鈴木孝政(すずき・たかまさ)
投手・千葉県立成東高校より
1972年ドラフト1位で入団

担当スカウトではなかったが、
鈴木孝政の速球にほれ込み、
フロントに猛烈にアピールした結果、
ドラフト会議当日の、指名直前に
1位候補だった選手を外して、
鈴木孝政を指名した。



田尾安志(たお・やすし)
外野手・同志社大学より
1975年ドラフト1位で入団

同志社大学時代は二刀流。
ピッチャーとして貴重な左腕で
プロでも通用する実力だったが、
法元英明は、バットスピードの速さで
田尾安志がバッターとして活躍できることを
確信し、バッターとして入団。



都裕次郎(みやこ・ゆうじろう)
投手・滋賀県立堅田高校より
1976年ドラフト1位で入団

知人の紹介で都裕次郎
高校3年の春に存在を知る。
夏の甲子園の滋賀県予選で
じっくり見る予定だったが、
1回戦で敗退。
練習試合での1試合見ただけで、
素質を見抜き
ドラフトで1位指名を進言する。



小松辰雄(こまつ・たつお)
投手・石川・星稜高校より
1977年ドラフト2位で入団

他球団に
同級生が1位で指名されたことで、
プライドが傷つけられ、
駒沢大学に入学準備を始める中、
法元英明の熱意と誠意のある説得により、
入団にこぎつけた。



牛島和彦(うしじま・かずひこ)
投手・大阪・浪商高校より
1979年ドラフト1位で入団

ドラフト会議前から、牛島家と接触があり、
法元英明の人柄から、家族とも意気投合し、
ドラフト前から
「中日以外なら社会人に進む」と宣言した。
その結果、単独1位で指名。



彦野利勝(ひこの・としかつ)
外野手・愛知高校より
1982年ドラフト5位で入団

法元英明の息子さんが、
彦野利勝の高校の1年先輩で、
息子さんの見学に来ていた時に
監督から紹介されたのが、
きっかけになる。


藤王康晴(ふじおう・やすはる)
内野手・愛知・享栄高校より
1983年ドラフト1位で入団

甲子園で11打席連続出塁の大会記録を
マークした地元の逸材。
「地元のスター候補生」は是が非でも中日に
という中での入団。
(藤王のことは、
高校1年から注目していたが、
入団当時法元英明は二軍監督)



山﨑武司(やまさき・たけし)
捕手・愛知・愛工大名電高校より
1986年ドラフト2位で入団

1986年当時、法元英明はフロント業務で
本人との関わりはなかったが、
その素質には、
高校2年より注目。
山﨑武司は巨人ファンで、
中日は一番入団したくない球団だと
言われていた。

プロを目指し練習





立浪和義(たつなみ・かずよし)
内野手・大阪・PL学園高校より
1987年ドラフト1位で入団

法元英明がスカウト復帰後、最初の指名選手。
体は小さいがセンスとメンタル面に注目し、
ドラフト1位指名候補に。
当初のドラフト1位候補は大学生だったが、
社会人に進みオリンピックを目指すため、
プロ入り拒否。
そのため急遽1位指名。
南海と競合の末、
星野仙一監督が当りくじを引き
入団。



井上一樹(いのうえ・かずき)
投手・鹿児島商業高校より
1989年ドラフト2位で入団

高校2年の頃から
ストレートの凄さが
「金田正一」を彷彿させるほどの
逸材として注目していた。


平田洋(ひらた・ひろし)
投手・愛知・豊田大谷高校
1993年ドラフト1位で入団

地元の逸材なので他球団に渡せないと、
ドラフト前から1位指名を公言し、
なりふり構わず平田獲得のために動く覚悟。
結果は、単独で1位指名でき、
高校生として球団記録となる
契約金1億円で入団。


正津英志(しょうつ・えいじ)
投手・NTT北陸より
1997年ドラフト3巡目で入団

大学時代からスピードボールに注目していたが、
卒業時の指名は見送り。
NTT北陸に入ってからもチェックし続け、
1997年の都市対抗野球での好投で、
指名を決定。
ドラフト当日、正津英二は、
ハワイに新婚旅行。
法元英明最後のドラフト指名選手。



浅尾拓也(あさお・たくや)
投手・日本福祉大学より
2006年ドラフト3巡目で入団

法元英明が、解説者として
中日スポーツに連載していた
「金の卵発見」コーナーに、
日本福祉大学の濱嶋監督より推薦があり、
浅尾拓也と出会う。



伊藤準規(いとう・じゅんき)
投手・岐阜城北高校より
2008年ドラフト2巡目で入団

「金の卵発見」コーナーに、
ダルビッシュ二世と紹介。
メンタル面に課題があると指摘。


田島慎二(たじま・しんじ)
投手・東海学園大学より
2011年ドラフト3巡目で入団

「金の卵発見」コーナーで紹介。
田島の両親は、
この紹介記事で
中日に入団することができたと
法元英明に感謝。



福谷浩司(ふくたに・こうじ)
投手・慶応義塾大学より
2012年ドラフト1巡目で入団

高校2年に初めて見た時に、
身体能力の高いとの
印象を持つ。



浜田達郎(はまだ・たつろう)
投手・愛工大名電高校より
2012年ドラフト2巡目で入団

大谷翔平、藤浪晋太郎、
とともに
高校ビッグ3と言われる。

ビッグ3の中で、最初に完封勝利。



祖父江大輔(そぶえ・だいすけ)
投手・トヨタ自動車より
2013年ドラフト5巡目で入団

中学卒業まで、
どこのチームにも所属せず、
毎日父親と二人で練習。

実践経験がないので、
レギュラーになったのは、
高校3年になってから。

法元英明が初めて見たのが、
大学2年のときで、
ストレートが早くて重いとの
印象を持つ。






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3、おわりに

 

 

【法元英明】が入団に携わった選手は41人で、
その7~8割が戦力として活躍しただろうと、
本人が著書の中で振り返っていますが、
この数字は驚くべき数字で、
【法元英明】が「伝説のスカウト」と
言われる所以ではないでしょうか?

また、
【法元英明】が解説者時代には、
ソフトな口調で温かみのある話し方や、
分析力のある明快な解説から、
その人となりを感じることができ、
私は好感を持ち、
特にラジオでの解説の日は
楽しみにしていました。

このようなところからも、
【法元英明】が入団に携わった選手や親御さん
に信頼され、
数多くの優秀な選手が中日に入団し、
その選手たちの活躍で、
常時Aクラスを争うチームが
できたのではないでしょうか?

強く、魅力のあるチーム作りに陰で
努力してくれた
【伝説のスカウト・法元英明】
一ファンとして、
改めて感謝します。


最後まで読んで頂きありがとうございます。


参考書籍:ぴあ株式会社中部支社・発行
法元英明・著
ドラマは球場の外にある


参考資料:ウィキペディア



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【元中日ドラゴンズ・小松辰雄】のプロフィールと投手成績を紹介!

最終更新日 2022年4月24日

目次

1、はじめに

2、小松辰雄のプロフィール

3、投手成績

4、おわりに

5、関連記事

硬式ボール

1、はじめに


【小松辰雄】は「スピードガンの申し子」
といわれ、
剛速球を武器に
「中日ドラゴンズ」のエースとして
ケガと闘いながら一時代を
築きました。

しかし、
中日入団時には、進学かプロかで
気持ちが揺れに揺れました。

1977年のドラフト会議で、
中日から2位指名だったことに、
プライドが傷つけられたからでした。

ほとんど、駒澤大学に入学が決まって
いたところを、
伝説のスカウトと呼ばれた「法元英明」が
乗り出したことにより、
一転して中日入団が決まりました。

これが無ければ、
中日の【小松辰雄】
誕生していなかったかもしれません。

ただ、
私は中日との出会いは、
良い巡り合わせであり、
中日だから活躍できたと思っています。

今回は、そのような【小松辰雄】
プロフィールと投手成績を紹介します。
ぜひ、参考にしてみて下さい。





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2、小松辰雄のプロフィール


1959年5月10日:石川県羽咋郡生まれ

1975年4月:石川県・星稜高校入学

1976年8月:星稜高校の2年生エースとして、
夏の選手権で甲子園出場、
準決勝敗退

1977年3月:星稜高校3年、
春の選抜で甲子園出場も
初戦敗退

1977年8月:夏の選手権で
2年連続甲子園出場も
初戦敗退

1977年11月22日:第13回ドラフト会議で
中日ドラゴンズから2位指名され入団

1978年10月4日:神宮球場のヤクルト戦で
プロ入り初登板、2回無失点

1979年4月11日:ナゴヤ球場のヤクルト戦で
プロ入り初勝利、1回2/3無失点

1979年4月12日: ナゴヤ球場のヤクルト戦で
プロ入り初セーブ、2回無失点

1979年5月:月間MVP受賞

1981年7月15日:神宮球場のヤクルト戦で
プロ入り初完投勝利、9回2失点

1981年9月21日:ナゴヤ球場の巨人戦で
プロ入り初完封勝利

1981年9月:月間MVP受賞

1982年10月18日:横浜球場の大洋戦で
完封勝利、胴上げ投手に

1984年:中日のエースNO、背番号20に

1985年:
最多勝利投手
最優秀防御率
最多奪三振
最優秀投手
沢村賞
ベストナイン受賞

1986年6月3日:ナゴヤ球場のヤクルト戦で
プロ入り通算1000投球回数達成

1987年8月26日:ナゴヤ球場のヤクルト戦で
プロ入り通算1000奪三振達成

1987年:2回目の最多勝利投手獲得

1990年4月17日:ナゴヤ球場の広島戦で
プロ入り通算1500投球回達成

1990年8月22日:神宮球場のヤクルト戦で
プロ入り通算100勝達成

1994年:現役引退

1995年3月26日:ナゴヤ球場の
オリックスとのオープン戦で
引退試合
(最後の打者イチローは、
少年時代小松に憧れていた)

1995年:中日2軍投手コーチ就任

1996年:中日1軍投手コーチ就任

1997年:中日1軍投手コーチ解任



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3、投手成績

年度球団勝利敗戦セーブ奪三振防御率
1978中日000311.25
1979 中日 6916862.68
1980 中日 156333.66
1981 中日 126111223.07
1982 中日 449582.60
1983 中日 71451333.20
1984 中日 11621683.05
1985 中日 17811722.65
1986 中日 790973.50
1987 中日 17601472.74
1988 中日 12701143.26
1989 中日 040117.66
1990 中日 650874.11
1991 中日 540694.42
1992 中日 990694.80
1993 中日 740493.62
1994 中日 120286.26
通算17年1221025014463.44
小松辰雄投手成績

4、おわりに


【小松辰雄】の記録は素晴らしいのですが、
私が、記憶に残っているのは、
優勝がかかっている大一番など、
大事な試合に強かった印象があります。

性格も男気があり、好感の持てる投手でした。

そんな【小松辰雄】が引退後、
2017年12月に
交通死亡事故を起こした時は、
本当にショックでした。

状況はわかりませんが、
死亡事故なので、
亡くなられた方や、
家族の方のことを思うと
いたたまれませんが、
【小松辰雄】のことなので、
誠意ある対応をしたと思います。

事が事だけに
二度と評論家には
復帰できないと思っていましたが、
その後、
不起訴処分となり、
評論家に復帰できました。



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5、関連記事

【中日ドラゴンズ】名選手列伝「スピードガンの申し子・小松辰雄」

最終更新日 2022年5月26日

目次

1、はじめに

2、小松辰雄の代名詞

3、胴上げ投手

4、おわりに

four jet plane on sky
Photo by Dylan on Pexels.com

1、はじめに


私が知る限りで、
【中日ドラゴンズ】歴代最速球の日本人投手は
「小松辰雄」です。

剛速球でバッターを牛耳る姿にしびれました。
その姿は、正に【中日】のエースです。

だから、
当然のように【中日】のエースナンバー
「20」を、星野仙一から受け継ぎました。

「20」番を背負った「小松辰雄」は、
【中日】のエースナンバーを受け継ぐに
相応しい活躍で、
歴代のエースに名前を刻みました。

このような「小松辰雄」の紹介をします。

ぜひ「話題のタネ」にして下さい。





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2、小松辰雄の代名詞


(1)スピードガンの申し子

いつの時代も、
速球投手は魅力があります。

そんな速球投手として、
ファンを魅了したのが、
「小松辰雄」です。

「小松辰雄」のボールは、
「ズドーン」とうなりを上げる
剛速球で、
相手チームの打者が恐ろしくて、
尻込みする選手もいたと
言われています。

「小松辰雄」のデビュー当時は、
主に「抑え」で、
入団2年目の1979年には、
54試合に登板して、
16セーブをあげました。

奪三振も投球回にほぼ匹敵する数でした。

この年くらいから、
現在では当たり前ですが、
スピードガンでのスピード表示が、
球場やテレビなどで、
映しだされるようになりました。

当時は、140キロ代のボールでも
早く感じる時代でした。

そんな中「小松辰雄」 が登板し
ナゴヤ球場の電光掲示板に
150km以上の表示がされると、
どよめきが起こるシーンが
何度もありました。

私の記憶している最速は、
154kmです。

スピードガン表示が、
球場やテレビなどに普及するにつれ、
「誰が1番早いのだろう?」
という話題が出始めました。

数字が何よりもの証拠ということで、
「小松辰雄」が1番早いという
意見が大多数でした。

これが、
「スピードガンの申し子」
と言われる所以です。


(2)小松の親分さん

小松の親分さんと聞くと、
名コメディアンの「小松政夫」さんを
思い出す人が多いと思います。

しかし、
【中日】にも小松の親分さん
います。

もちろん「小松辰雄」です。

そのように呼ばれた理由は、
気持ちが広くおおらかで、
小さなことをあまり気にせず、
後輩に対しての面倒見の
良さからです。

ただ、この親分肌が、
仲間意識を捨てきれずに
指導者として成功できなかった
理由としてあげられたことも
ありました。

3、胴上げ投手


数々の栄光がある「小松辰雄」ですが、
その中でも最も印象に残っている
試合があります。

1982年(昭和57年)10月18日の
横浜球場での大洋対中日の
シーズン最終戦です。

この試合は、
中日が勝つか引き分けで優勝という
緊張感のある試合でした。

また、
「田尾安志・5打席連続敬遠」
という信じられない出来事があり、
物議をかもした試合でもありました。

1982年の「小松辰雄」は、
開幕投手を務めたものの
ケガのため、
最終戦が、
2回目の先発でした。

栄光の開幕投手に
選ばれたにもかかわらず、
ケガで、満足な仕事ができなかった
無念を晴らすべく上がったマウンドで、
見事に、2安打完封勝利で
胴上げ投手になりました。

期待をかけてくれた「近藤貞夫監督」を
胴上げすることができた試合だったので、
ひとしお感慨深い試合であったと思います。

この試合はまさに「一球入魂」の
気迫を感じた試合であったので、
今も鮮明に印象に残っています。





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4、おわりに


「スピードガンの申し子・小松辰雄」
の紹介をしましたが、
いかがでしたか?

「小松辰雄」の魅力は、
何と言っても「剛速球」ですが、
親分肌で、面倒見の良い
人間としての魅力があります。

そんな「小松辰雄」
もう一度指導者として、
人間力を活かした指導で、
第二の「小松辰雄」
呼ばれるような投手を
育成して欲しいと思います。


最後まで読んで頂きありがとうございます。






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5、関連記事





【元中日ドラゴンズ・鈴木孝政】のプロフィールと投手成績を紹介!

最終更新日 2021年9月13日


目次

1、はじめに

2、鈴木孝政のプロフィール

3、投手成績

4、おわりに

高校野球のエース

1、はじめに


【鈴木孝政】は高校時代、甲子園の出場が
ないので、中央では無名に近い投手でしたが、

千葉県では【鈴木孝政】が投げる試合は
球場が満員になるほどの注目度でした。

【中日ドラゴンズ】入団後も、
快速球を武器に
抑えのエースとして大活躍しました。

抑えとして、3年連続で「規定投球回数」を
記録するほどの酷使がたたり、
肘を故障してしまい、
快速球が投げられなくなり、
「ボールの緩急」で勝負する投手に
なり、抑えから先発に回り、
コンスタントに成績を残すように
なりました。

そんな【鈴木孝政】の輝きと苦悩を
プロフィールと投手成績で
紹介します。

ぜひ「話題のタネ」にして下さい。





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2、鈴木孝政のプロフィール


1954年7月3日:千葉県山武市生まれ

1970年4月:千葉県立成東高校入学
野球部に入部し、1年からエース

1971年:夏の選手権、東関東大会の
準決勝敗退

1972年:春の関東大会、決勝で敗れる

1972年11月21日:ドラフト会議で
中日に1位指名され入団

1973年4月19日:川崎球場の
大洋戦で初登板

1974年8月7日:中日球場の巨人戦で
プロ初勝利

1974年8月18日:中日球場の阪神戦で
プロ初セーブ

1975年:最多セーブ投手賞受賞

1976年9月14日:ナゴヤ球場の大洋戦で
プロ初完投勝利

1976年:最優秀防御率賞受賞
最優秀救援投手賞受賞

1977年:自己最多の18勝を記録
最優秀救援投手賞受賞

1982年7月1日:ナゴヤ球場の巨人戦で
プロ初完封勝利

1983年8月19日:ナゴヤ球場の阪神戦で
プロ通算1000投球回数達成

1984年:カムバック賞受賞

1986年4月12日:ナゴヤ球場のヤクルト戦で
プロ通算100勝達成

1986年8月15日:ナゴヤ球場の阪神戦で
プロ通算1500投球回達成

1986年9月5日:ナゴヤ球場の阪神戦で
プロ通算500試合登板

1989年7月21日:浜松球場のヤクルト戦で
ラリー・パリッシュから
プロ通算1000奪三振達成

1989年:現役引退



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3、投手成績

年度球団勝利敗戦セーブ奪三振防御率
1973中日00なし00.00
1974 中日 422533.52
1975 中日 98211172.98
1976 中日 78261182.98
1977 中日 18991313.76
1978 中日 1039462.09
1979 中日 109333.00
1980 中日 4312362.73
1981 中日 688433.20
1982 中日 970563.11
1983 中日 740483.65
1984 中日 1680604.07
1985 中日 8120664.15
1986 中日 990783.15
1987 中日 960604.50
1988 中日 430343.13
1989 中日 340274.72
通算17年124949610063.49
鈴木孝政投手成績

4、おわりに


1972のドラフト会議で【中日】
直前まで、
中日スポーツでも紹介されていた
この年の目玉の一人
選抜優勝の日大桜丘のエース
「ジャンボ・仲根正広」を
指名する予定でした。

しかし、直前のミーテイングで
スカウトの「法元英明」の
熱弁にうたれた監督代理で出席した
「近藤貞夫コーチ」が
【鈴木孝政】の指名を決断したと
いわれています。

この時の決断が正しかったかどうかは
わかりませんが、
確実にいえることは、
【鈴木孝政】【中日】の球団史に
名を残し、記憶にも残る
「名投手」ということです。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア

5、関連記事


【中日ドラゴンズ】名選手列伝
「切れ味鋭い快速球・鈴木孝政」
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【元中日ドラゴンズ・三沢淳】のプロフィールと投手成績を紹介!

最終更新日 2022年5月26日


目次

1、はじめに

2、三沢淳のプロフィール

3、投手成績

4、おわりに

photography of barrel wave
Photo by Emiliano Arano on Pexels.com

1、はじめに

今では、数少ない「アンダースロー」の投手。
その「アンダースロー」の投手として
活躍し、
記憶に残っている投手が
今回紹介する【三沢淳】です。

ドラフト会議で「中日ドラゴンズ」から
指名されたのを拒否し、
社会人に進んだ【三沢淳】
伝説のスカウト「法元英明」が
粘り強く交渉し、
1年後に入団にこぎつけました。

「中日」としては、何が何でも
入団させたかった【三沢淳】
プロフィールと投手成績を
紹介します。

これで「中日」が入団させたかった
理由がよくわかります。

ぜひ参考にして頂き、
「話題のタネ」にして下さい。




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2、三沢淳のプロフィール

1952年10月1日:島根県浜田市生まれ

1968年4月:島根県立江津工業高校入学

1970年春:選抜出場も初戦敗退

1970年夏:選手権は初戦突破も、
2回戦で後のチームメートとなる
東邦の水谷啓昭に抑えられて敗退

1970年11月19日:中日ドラゴンズから
3位指名も入団拒否

1971年4月:社会人野球の強豪
新日鉄広畑野球部に入部

1971年夏:都市対抗野球で優勝
小野賞を受賞
(大会で素晴らしい活躍をした選手、
監督、チームが選出される特別賞)

1971年秋:アジア野球選手権の
日本代表に選出され準優勝に貢献

1971年11月:中日入団

1972年4月16日:中日球場の巨人戦で
リリーフで初登板し、初勝利

1973年4月28日:中日球場の巨人戦で、
先発初勝利・初完投勝利

1973年9月27日:大洋戦で初完封勝利

1973年:初の2ケタ勝利(10勝)

1974年:2年連続2ケタ勝利の11勝を
上げ「中日」20年ぶりのセ・リーグ優勝に
貢献
セ・リーグ最多与死球

1975年:3年連続2ケタ勝利
(自己最多の13勝)

1976年10月11日:ナゴヤ球場の広島戦で
初セーブ

1976年: セ・リーグ最多与死球

1978年:1975年以来の2ケタ勝利

1979年:自己最多タイの13勝で
2年連続2ケタ勝利

1981年:後楽園球場の巨人戦で
初の開幕投手

1983年8月11日:ナゴヤ球場のヤクルト戦で
プロ通算100勝を達成

1984年:日本ハムにトレード

1985年10月16日:藤井寺球場の近鉄戦で
プロ通算500試合登板達成

1986年:現役引退






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3、投手成績

年度球団勝利敗戦セーブ奪三振防御率
1972中日35なし443.67
1973 中日 108なし872.56
1974 中日 1190903.45
1975 中日 1370893.21
1976 中日 9121745.34
1977 中日 441495.12
1978 中日 1291903.40
1979 中日 13110973.72
1980 中日 8120814.09
1981 中日 7102693.35
1982 中日 870743.56
1983 中日 480395.77
1984 中日 331165.95
1985 日ハム100122.06
1986日ハム11031.04
通算15年10710669143.81
三沢淳投手成績

*セーブは1974年から表彰

4、おわりに

【三沢淳】のプロフィールと投手成績を
紹介しました。

最後にとっておきのエピソードを
紹介します。

【三沢淳】「中日入団」が決まった時の
中日新聞本社は、ハチの子をつついたような
大騒ぎで喜んだそうです。

この時点で印刷が終わって出荷寸前の
「1972年のドラゴンズカレンダー」を
急遽【三沢淳】の入った物に
変更したそうで、
その期待度の大きさを
物語るエピソードです。


最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア

5、関連記事


中日ドラゴンズ名選手列伝
【美しいアンダースロー・三沢淳】
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【中日ドラゴンズ】名選手列伝「切れ味鋭い快速球・鈴木孝政」

最終更新日 2022年4月24日


目次

1、はじめに

2、快速球で強打者をなで斬り

3、記憶に残っている出来事

4、おわりに

air show with planes creating curved traces in cloudy sky
Photo by Harrison Haines on Pexels.com

1、はじめに


【中日ドラゴンズ】の歴代で
トップクラスの速球投手
【鈴木孝政】は、抑え時代は
「切れ味鋭い快速球投手」として
「中日・ナゴヤ球場」を沸かせました。

ケガをしてからは「軟投派」に
変わってしまいましたが、
今でも「快速球の軌道」が
頭に浮かびます。

そんな【鈴木孝政】
ついて紹介します。

ぜひ「話題のタネ」にして下さい。




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2、快速球で強打者をなで斬り


【鈴木孝政】が入団当初の【中日】は、
「軟投派」の投手が多く、
「速球派」の投手を待ち望んでいました。

そんな中、彗星のごとく現れたのが
【鈴木孝政】でした。

入団1年目は、1試合のみでした。
2年目の1974年はほとんどリリーフでしたが、
35試合に登板しました。

1974年が実質のデビューになりましたが、
この年に最も記憶に残るでき事がありました。

月日は憶えていませんが、
中日球場で9連覇中の
強い巨人戦初登板の日に、
いきなり「O(王)N(長嶋)
打順にリリーフ登板し、
連続三振に斬って取りました。

誰もが予想しなかった結果での、
巨人戦デビューでした。

翌日もリーリーフで登板し、
「O・N」を斬ってとりました。

この試合は、20年ぶりのセ・リーグ優勝の
一つのポイントになった試合でした。

この年
「ミスタープロ野球の長嶋茂雄」引退
しますが、
もしかすると、この試合が引退の
決意をする一つの要因ではなかったかと
思っています。

肘を痛める1978年頃までは、
速球派として、ストレートで打者を
なで斬りしました。

その後、
ケガで衰えた球威をカバーするため、
ボールに緩急をつける投げ方を
身につけ、
軟投派としてカムバックを果たしました。

3、記憶に残っている出来事


(1)1973年春のキャンプ

この当時は、
浜松で春のキャンプを行っていました。

ある日曜日に浜松キャンプの
見学に行きました。

たまたま近くで【鈴木孝政】
ランニングをしていたのですが、
気が付かず、
千葉県の方から【鈴木孝政】
応援に来ていた一団の中から
「孝政!
おばちゃんが見に来てるので頑張れよ!」と
声がかかり【鈴木孝政】だと
わかりました。

大変失礼な話ですが、
この時は「中日の主力投手」に
なるとは思っていませんでした。


(2)1970年代の後半頃
だと思いますが、
【鈴木孝政】の頭が大きいということで、
「アタマサ」と呼ばれているのを、
TV番組で知りました。


(3)【鈴木孝政】は「歌手の八代亜紀」の
ファンで、
フジTV系列の「公開お見合い番組・
ラブラブショー」で
「八代亜紀」と演出とはいえ
デートができ、
喜んでいる表情が印象に残っています。





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4、おわりに


【鈴木孝政】は、「中日」が待ち望んだ
速球で勝負ができる投手でした。

当時のプロ野球のスーパースター「O・N」
対して直球で勝負に挑む姿に感銘を受けました。

このような【鈴木孝政】も間違いなく、
記録と記憶に残る投手でした。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

5、関連記事


【元中日ドラゴンズ・鈴木孝政】の
プロフィールと投手成績を紹介!
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中日ドラゴンズ名選手列伝【美しいアンダースロー・三沢淳】

最終更新日 2022年4月25日


目次

1、はじめに

2、三沢淳の投球

3、苦難の中日入団

4、引退後の驚きの転身

5、おわりに

ドーム球場

1、はじめに

【中日ドラゴンズ】のアンダースローの
投手で活躍した選手はあまりいません。

かすかに記憶にある投手が
黒い霧事件の小川健太郎」です。

この事件が無ければ、間違いなく
【中日】の歴代NO1の
アンダースローだったと思います。

しかし、その「小川健太郎」
勝るとも劣らない投手がいました。

それが今回紹介する【三沢淳】です。

ぜひ参考にして「話題のタネ」に
して下さいね。





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2、三沢淳の投球

【三沢淳】の特徴は、
「美しいフォーム」と言われた
アンダースローから繰り出す
シュートとスライダーで打たせて取る
ピッチングでした。

調子が良い時は、ボールが低めに集まり
ゴロの山を築き、相手チームに
付け入るスキを見せませんでした。

しかし、調子が悪い時は、
ボールが高めに浮き
初回から連打を浴びノックアウトと
いう場面もありました。

また、決め球のシュートで内角を突く
ピッチングだったので、
デッドボールも多くリーグ最多与死球を
2度記録していることです。

【三沢淳】 の投げた試合で一番記憶に
あるのが、
ナゴヤ球場での巨人戦で、
9回表ツーアウトからヒットを打たれ
「ノーヒット・ノーラン」を逃した試合です。
あと一人という場面だったので、残念でした。

プロ入り2年目には、10勝を上げ
ローテーション投手になり、
翌年は、11勝で20年ぶりの
セ・リーグ優勝に貢献しました。

3、苦難の中日入団


【三沢淳】を語る上で避けて通れないのが、
ドラフト指名後の「中日への入団拒否」です。

島根県の江津工業高校3年には、
エースとして「春・夏」連続で
甲子園に出場にしプロ野球からも
注目されていました。

しかし【三沢淳】は、
社会人野球入りを希望していました。

そのような状況の中、
行われた1970年のドラフト会議で、
【中日】は当時の監督水原茂が
強行に【三沢淳】を指名しました。

結果は「入団を拒否」し、
社会人野球の新日鉄広畑に入社しました。

新日鉄広畑に入社した【三沢淳】は、
都市対抗野球で大活躍をし、
チームを優勝に導きました。

これで【三沢淳】の株が上がり、
次のドラフト会議の目玉候補に
上がって来ました。

こんな中【三沢淳】の獲得のために、
獅子奮迅の活躍をしていたのが、
「伝説のスカウト・法元英明」です。

当初は、本人はもちろん、両親、
や新日鉄広畑の監督からも
面会拒否されましたが、
持前の粘りで誠意を積み重ね【三沢淳】
お母さんの信頼を得ることができ、
「入団」までこぎつけたと
いわれています。



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4、引退後の驚きの転身


選手時代の晩年は「ケガ」がつきまとい、
思うような活躍ができず、
トレードに出された「日本ハム」で
引退をしました。

引退後、しばらくは野球解説者としてテレビや
ラジオに出演していましたが、
1996年(平成8年)衆議院議員の総選挙に
突如、立候補しました。

全くの驚きの出来事で、
さらに驚きは「当選」した事でした。

政治には全く関心がないと思っていたので、
何故?と思いましたが、
お世話になった人からの頼みで
断り切れなかったというのが真相
とのことです。

いかにも義理堅い【三沢淳】らしい
話です。

5、おわりに


【三沢淳】【中日】への入団拒否を
した時は、一体どんな選手なんだろう?
思ったものです。

その後【中日】に入団し、
テレビやラジオなどで
真面目で、義理堅く、情のある選手で
あることが伝わりました。

野球だけでなく人としても一流の
【三沢淳】もまた、
記憶に残るピッチャーです。

最後まで読んで頂きありがとうございます。


参考資料:ウィキペディア

6、関連記事


【元中日ドラゴンズ・三沢淳】の
プロフィールと投手成績は
こちらからどうぞ






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【元中日ドラゴンズ・田尾安志】のプロフィール・選手、監督成績を紹介!

最終更新日 2022年4月25日


目次

1、はじめに

2、田尾安志のプロフィール

3、選手成績

4、監督成績

5、おわりに

6、関連記事

men playing baseball in stadium
Photo by Martin Péchy on Pexels.com

1、はじめに


中日ドラゴンズに在籍中の
【田尾安志】は、
絶大な人気がありました。

しかし、
ファンにとって最大のショックの
西武へのトレードがあり、
見る機会が減ってしまい、
「記憶の中の選手」に
なってしまいました。

そんな【田尾安志】のプロフィールや
成績で振り返り、
応援していたあの頃に
夢をはせたいと思います。

若い方はバラエティー番組に
出演する 【田尾安志】 しか
知らないと思いますが、
プロフィールや成績から
プロ野球選手【田尾安志】
知って下さい。




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2、田尾安志のプロフィール


1954年1月8日:大阪市西区生まれ

1969年4月:大阪府立泉尾高等学校
入学

1971年泉尾高校3年:選手権の大阪府大会で
投打に活躍も、浪商に敗れ準決勝で敗退

1972年4月:同志社大学入学
3、4年生は二刀流で活躍

1973年:大学選手権、準決勝敗退

1974年・春:リーグ記録の打率.548で
首位打者
明治神宮大会・ベスト4

1975年11月:ドラフト会議で
中日ドラゴンズより1位指名

1976年:中日に入団
新人王獲得

1978年:レギュラー獲得

1979年:初の規定打席到達

1980年:一番打者として、
自己最高打率.299を記録

1981年:初の打率3割(.303)を記録
ベストナイン

1982年:2年連続打率3割を記録
セ・リーグ最多安打、最多出塁を記録
ベストナイン

1983年:3年連続打率3割を記録
2年連続セ・リーグ最多安打を記録
ベストナイン

1984年:4年連続打率3割を記録
3年連続セ・リーグ最多安打を記録

1984年8月7日:横浜大洋ホエールズで
プロ入り通算1000本安打記録

1984年8月20日:
ヤクルトスワローズ戦で
プロ入り通算100号本塁打を記録

1984年8月29日:広島東洋カープ戦で
プロ入り通算1000試合出場

1985年:西武ライオンズの
杉本正・大石友好とのトレードで移籍

1987年:阪神タイガースの
吉竹春樹・前田耕司とのトレードで
憧れの阪神へ移籍

1989年7月12日:中日戦で
プロ入り通算1500試合出場

1990年7月5日:読売巨人戦で
プロ入り通算1500本安打を記録

1991年:現役引退

2001年:アジア大会で全日本の
コーチに就任

2005年:
東北楽天ゴールデンイーグルスの
初代監督に就任
監督1年で解任

3、選手成績

年度球団試合打率本塁打打点
1976中日67.277321
1977 中日 96.276619
1978 中日 102.2741147
1979 中日 123.2511350
1980 中日 122.299734
1981 中日 124.3031553
1982 中日 129.3501441
1983 中日 130.3181361
1984 中日 130.3102049
1985西武127.2681360
1986西武106.265828
1987阪神104.221612
1988 阪神 80.300421
1989 阪神 84.286527
1990 阪神 119.2801150
1991 阪神 40.15501
通算16年1683.288149574
田尾安志・選手成績






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4、監督成績

年度球団順位試合勝利敗戦引分勝率
2005楽天6位13638971.281
通算1年13638971.281
田尾安志・監督成績


5、おわりに


いかがでしたか?
【田尾安志】のプロフィール、
選手・監督成績を紹介しました。

残念なのはトレードで
成績が落ちた事です。

環境に馴染めなかったのでしょうが、
もっと結果が残せたはずです。

でも、最後は自分が入団したかった
阪神で引退できたことが、
せめてもの救いです。

今後は、できれば指導者として
もう一度中日のユニフォームを
着て欲しいものです。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア

6、関連記事



日本プロ野球勝敗の
決め手となった問題になった
敬遠四球はこちらからどうぞ



【中日ドラゴンズ】名選手列伝
「爽やかな安打製造機・田尾安志は
こちらからどうぞ





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【元中日ドラゴンズ・松本幸行】のプロフィールと投手成績を紹介!

最終更新日 2021年8月18日


目次

1、はじめに

2、松本幸行のプロフィール

3、投手成績

4、おわりに

5、関連記事

white baseball ball on brown leather baseball mitt
Photo by Steshka Willems on Pexels.com

1、はじめに


【松本幸行】は「早投げのマツ」と
いわれるほど投球間隔が短い投手でした。

それに輪をかけて登板した試合は、
味方も相手も
ヒットが少ない貧打戦も多く、
試合時間も短くなることがよくありました。

武器は、シンカーで打たせて取る
ピッチングが特徴でした。

スピードボールがなかったので、
調子が悪い時は、
連打を浴び早い回で
ノックアウトされるケースもありました。

【松本幸行】が、
プロの世界で成功できた
もう一つの理由は、
ひょうひょうとし、
物事にこだわらない
性格だったからだと思います。

そんな【松本幸行】のプロフィール、
投手成績を紹介します。

オールドファンは、
投球フォームを思い出し、
若い方はどんな投手だったのか
ぜひ想像してみて下さいね。





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2、松本幸行のプロフィール


1947年6月5日:大阪市生野区生まれ

1963年4月:大阪商業大学付属高校
入学

1966年4月:デュプロ印刷機入社

1969年:都市対抗野球に
デュプロ印刷機 が初出場
チームに貢献するも2回戦敗退

1969年11月:ドラフト会議で
中日ドラゴンズから4位指名され入団

1970年4月:プロ入り1年目で初登板

1970年6月9日:広島東洋カープ戦で
プロ初勝利

1970年10月1日:広島戦で初完封、
初完投

1971年:先発ローテーション入り

1972年:初の2ケタ勝利の13勝を
上げる

1973年:2年連続2ケタ勝利

1974年:20勝を上げ、
中日20年ぶりのセ・リーグ優勝に貢献
最多勝、最高勝率獲得
3年連続2ケタ勝利

1975年:初の開幕投手
4年連続2ケタ勝利

1976年:5年連続2ケタ勝利

1980年:阪急ブレーブスに
三枝規悦とのトレードで移籍

1980年6月19日:南海ホークス戦で
プロ入り通算100勝を達成

1981年:現役引退




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3、投手成績

年度球団勝利敗戦セーブ奪三振防御率
1970中日230252.55
1971 中日 550612.98
1972 中日 1380763.14
1973 中日 14110902.38
1974 中日 2090893.13
1975 中日 17150982.41
1976 中日 15150623.96
1977 中日 482265.36
1978 中日 6120585.13
1979 中日 230114.91
1980阪急1051283.88
1981 阪急 340146.53
通算12年1119836383.53
松本幸行・投手成績

4、おわりに

【松本幸行】のプロフィールと
投手成績を紹介しました。

プロで100勝以上しているのに
引退後は「プロ野球界」に
関わりがないのは
少し寂しい思いがあります。

しかし、独特なフォーム、言動など
【松本幸行】もまた、
記憶に残る選手の一人でしす。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア

5、関連記事


【中日ドラゴンズ】名選手列伝
「トラキラー・ちぎっては投げの
松本幸行」はこちらからどうぞ





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【中日ドラゴンズ】名選手列伝「爽やかな安打製造機・田尾安志」

最終更新日 2022年4月25日


目次

1、はじめに

2、田尾安志の打撃

3、5打席連続敬遠

4、西武へのトレード

5、おわりに

aerial view of sports stadium during daytime
Photo by Tim Gouw on Pexels.com

1、はじめに


私の記憶している
【中日ドラゴンズ】の選手の中で、
女性に一番人気があったのは、
甘いマスクと実直な性格の
【田尾安志】だったと思います。

もちろん、その性格から
男性ファンからも人気が絶大でした。

そんな【田尾安志】ですが、
「安打製造機」と呼ばれるくらい
野球でも、
一流の打撃成績を残しました。

今回は【田尾安志】の紹介をします。
ぜひ最後まで読んで下さい。



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2、田尾安志の打撃


【田尾安志】の打撃の特徴は、
構えに入るまでに「バット」を
大きく円を描くようにぐるぐる回し、
「ピタッ」と構えに入る独特の
バッティングフォームから
繰り出すヒットでした。

ライト、センター、レフトと
広角に安打を繰り出すことから
「安打製造機」ともいわれて
いました。

愛工大名電出身の「イチロー」
中日ファンで【田尾安志】を尊敬し、
バッティングフォームを
真似していたといわれています。

ドラフト会議で【中日】
【田尾安志】の交渉権を
獲得した時に、
他球団から【中日】
「この先10年は外野手の心配がいらない」
といわれましたが、
入団当初は、不遇でした。

それは
「当時の監督・与那嶺要
(よなみねかなめ)」が
【田尾安志】のことを
右のアンダースロー用の「代打」
としか考えていなかったからです。

したがって、先発出場もなく
「代打」での出番もないことから
業を煮やして、
自ら二軍行きを申し出ました。

この二軍での経験が生きて、
後半戦に一軍に復帰すると
先発出場するようになり、
結果「新人王」
獲得することになりました。

その後は「4年連続打率・3割」
「3年連続・最多安打」など
「安打製造機」と言われる所以の
活躍をしました。

3、5打席連続敬遠


1982年(昭和57年)10月18日
横浜球場の大洋対中日の
シーズン最終戦での出来事です。

この時点で首位打者の
大洋・長崎啓二の打率.351を
1厘差で【田尾安志】
追いかけていました。

この試合、長崎啓二はスタメンから外れ
【田尾安志】にヒットが出れば
出場する予定でした。

この首位打者争い以上に、
注目を集めていたのは、
優勝争いです。

この試合の前の時点で、
全日程を終えた巨人と中日は
ゲーム差なしで並んでいて、
中日が勝つか引き分けで優勝という
大事な試合でした。

この試合で1番スタメンの
【田尾安志】
長崎啓二に首位打者を
獲らせるための大洋の作戦で、
初回からいきなり敬遠され、
5打席すべて敬遠となりました。

5打席目には、敬遠のボールを
2球空振りし抵抗をみせました。

この試合は、5回も敬遠でチャンスを
貰った中日が勝ち優勝を決めました。

その後、この5打席連続敬遠は
大きな物議を巻き起こしました。




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4、西武へのトレード


1982年首位打者を逃した
【田尾安志】は、
その後も連続で3割を打ち
チームをけん引してきました。

そんなチームリーダーが突然
西武ライオンズにトレードに
出されることになりました。

突然の話しでショックが大きく、
トレード反対の署名運動も
起きましが結局、
杉本正、大石友好とのトレードは
成立してしまいました。

このトレードは、
選手会長だった【田尾安志】
選手のためを思って提言したことが
球団幹部に煙たがれたからと
言われています。

この時【田尾安志】は、
家を新築したばかりで
さぞかし大変なこと
だったのだろうと思いました。

また、このトレード話しの
インタビュー中に
【田尾安志】が流した大粒の涙
印象的で
今も鮮明に私の記憶にあり、
悲しい思い出の一つになっています。

その年のオープン戦で、
ナゴヤ球場に西武の選手として
やって来た時の「中日ファン」からの
大声援と応援歌には
溜飲が下がる思いでした。

5、おわりに


いかがでしたか?
【田尾安志】の紹介をしました。

【田尾安志】は本当に中日ファンから
愛されていました。

だからこそ、西武へのトレードは
悲しく、残念な出来事でした。

そんな【田尾安志】も間違いなく、
記憶に残る名選手です

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア

6、関連記事


【元中日ドラゴンズ・田尾安志】の
プロフィール・選手、
監督成績を紹介!
はこちらからどうぞ



日本プロ野球勝敗の
決め手となった問題になった
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【中日ドラゴンズ】名選手列伝「トラキラー・ちぎっては投げの松本幸行」

最終更新日 2021年8月17日


目次

1、はじめに

2、松本幸行とは?

3、松本幸行 で印象に残っていること

4、おわりに

empty baseball field under sundown sky
Photo by Kelly Lacy on Pexels.com

1、はじめに


【松本幸行(まつもとゆきつら)】は、
「阪神キラー」と呼ばれた
「中日ドラゴンズ」の左腕のエースでした。

「星野仙一」と左右の両輪として
1974年(昭和49年)
「中日・20年ぶりのセ・リーグ優勝」に
貢献しました。

「星野仙一が燃える男」に対して
【松本幸行】は「ひょうひょう」と
していました。

そんな記録より記憶に残る投手の一人
【松本幸行】について紹介します。






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2、松本幸行とは?


1969年(昭和44年)のドラフト会議で
中日から「ドラフト4位」で
デュプロ印刷在職中に指名され、
入団しました。
(同期のドラフト1位は谷沢健一

「早投げの松」と呼ばれる所以の
「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」で
キャッチャーからの返球を受け取ると
すぐにバッターに投げていました。

キャッチャーからの返球の間に
サインを見ていたといわれています。

特に「木俣達彦」
バッテリーを組んだ試合は、
試合時間が短くなると
いわれていました。

「ひょうひょう」とした性格で、
全盛期だったO・N(王貞治・
長嶋茂雄
にもひるまずに
挑んでいました。

【松本幸行】 の投手としての
一番の強みは、
メンタル面の強さでした。

例え打たれても気持ちをすぐに
切り替えることができたのが、
厳しいプロ野球で生きることが
できた理由でもありました。

【松本幸行】 の投げた試合で
一番印象に残っているのが、
阪神タイガースとの甲子園での試合で、
阪神のエース・江夏豊が延長戦の末、
ノーヒットノーランを達成し、
自らサヨナラホームランで
阪神が勝った試合です。

敵地でノーヒットノーランを
続けられている中、
「ひょうひょうとちぎっては投げ」で
阪神を押さえ込む
【松本幸行】 の メンタル面の強さを
感じました。

また阪神 松本幸行 】 との関わりでは、
当時、左打者が多かった阪神に強く
【中日】在籍中は、
「トラキラー」と呼ばれていました。





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3、 松本幸行 で印象に残っていること


(1)中日入団前の話

松本幸行 】の担当スカウトは、
伝説のスカウトと呼ばれた
「法元英明(ほうもとひであき)」
です。

その「法元英明」がラジオで
入団前のエピソードとして
話していたことが
いつまでも頭に残っています。

【中日】に入団が決まった後、
松本幸行 】 の
車に乗る機会がありました。

その時、後部座席を見ると
スプリングが飛び出して
いたそうです。

普通では人を乗せるのを
躊躇するのに 【松本幸行 】 は
一切気にしていなかったそうです。

いかにも「ひょうひょう」として
「細かいこと」を気にしない
松本幸行 】 らしいエピソードで
いつまでも記憶に残っています。


(2)中日球場で

中日球場での試合前
(年代、対戦相手は憶えていない)
バックネット裏の上段で
試合前の練習を見ていると、
私から3段ほど後の席に
両手に売店で買ったと思われる
「かき氷」を持った【松本幸行 】 が
いました。

呆気に取られて、
何もできませんでしたが、
「試合前にかき氷を食べてもいいのか?」
「選手も売店で買い物をするのか?」
「そもそも、
どのように客席に入ったのか?」
という疑問を持ちました。

テレビで見ている【松本幸行 】 の
ひょうきんで人懐っこい
人柄そのものでした。

4、おわりに


いかがでしたか?

松本幸行 】 の紹介をしました。

性格面ではひょうひょうとして、
ピッチングでも早投げで、
一見、
何も考えていないように思えますが
その裏には「緻密なコントロール」と
落ちる球の武器があったので、
プロ野球の第一線で12年間も
活躍できたのではないでしょうか。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア







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【元中日ドラゴンズ・木俣達彦】のプロフィールと選手成績を紹介!

最終更新日 2022年4月25日

目次

1、はじめに

2、木俣達彦のプロフィール

3、選手成績

4、おわりに

5、関連記事

aerial view of sports stadium during daytime
Photo by Tim Gouw on Pexels.com

1、はじめに

【木俣達彦】は、選手として
「中日ドラゴンズ」
一筋で活躍してきました。

入団は当時の「中日」
キャッチャー不足で、
中京大学で活躍していた
【木俣達彦】に白羽の矢が立ち、
無謀にも中退させての
異例の入団でした。

入団後は、
外野を守った事もありますが、
「キャッチャー」として、
「中日ドラゴンズ」のホームベースを
守ってきました。

「キャッチャー」といえば「守備の要」と
いわれていますが、
【木俣達彦】は打撃でチームに貢献しました。

今でこそ「打てるキャッチャー」は
珍しくありませんが、
当時は「野村克也」に次ぐくらいの
「打てるキャッチャー」でした。

そんな【木俣達彦】
プロフィールや打撃成績を紹介します。

オールドファンは「マサカリパンチ」を
思い出して下さい。

また、若い方は「中日ドラゴンズ」
こんな凄い「キャッチャー」が
いたことを覚えて下さい。







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2、木俣達彦のプロフィール

1944年7月7日:愛知県岡崎市生まれ

1960年4月:
中京商業入学(現中京大中京)

1961年:中京商業2年
選抜・1回戦敗退
選手権・準々決勝敗退

1962年:中京商業3年
選抜・準決勝敗退
選手権・準決勝敗退

1963年4月:中京大学入学
キャッチャーとして、
愛知大学リーグ春・秋連覇
秋季リーグで首位打者、MVP
全日本大学選手権・準決勝敗退

1964年:中京大学中退
中日ドラゴンズ入団

1965年:キャッチャーの
レギュラー獲得

1968年:前年までの2年間の
ケガ、不調から復活し、
自己最多の打率.289、
21ホーマー、59打点を記録

1969年:セ・リーグのキャッチャー
として初の30ホームラン以上(33本)
を記録
この年初のベストナイン受賞

1970年7月13日:ヤクルト戦で
プロ入り通算100号ホームランを記録
この年2年連続ベストナイン受賞

1971年:3年連続でベストナイン受賞

1972年5月24日:大洋(現横浜)戦で
プロ入り通算150号ホームランを記録

1972年9月7日:広島戦で
プロ入り通算1000試合出場

1974年:自己最高打率.322を記録し、
中日20ぶりのセ・リーグ優勝に貢献

1974年7月9日:ヤクルト戦で
プロ入り通算1000本安打を記録

1976年5月3日:ヤクルト戦で
プロ入り通算200号ホームランを記録

1977年4月10日:読売戦で
プロ入り通算1500試合出場

1977年:ベストナイン受賞

1978年8月15日:横浜戦で
プロ入り通算1500本安打記録

1979年7月28日:ヤクルト戦で
プロ入り通算250号ホームランを記録
この年ベストナイン受賞

1981年4月30日:広島戦で
プロ入り通算2000試合出場
(セ・リーグのキャッチャーでは
史上初)

1982年:引退
当時、最高のバッテリーと言われた
燃える男・星野仙一とともに
引退



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3、選手成績

年度球団試合打率本塁打打点
1964中日56.21209
1965中日132.2121038
1966中日126.248941
1967中日84.2241532
1968中日118.2892159
1969中日120.2683360
1970中日128.2833065
1971中日126.2802771
1972中日125.2682148
1973中日117.251932
1974中日123.3221850
1975中日119.279343
1976中日121.3021440
1977中日123.3101351
1978中日117.2941655
1979中日126.3121772
1980中日125.2981867
1981中日108.2761036
1982中日48.17013
通算19年2142.277285872
木俣達彦打撃成績

4、おわりに

【木俣達彦】のプロフィールと
打撃成績を紹介しました。

個人的なことですが、
私の父親と【木俣達彦】の父親が
知り合いで、
年に何度か「バックネット裏」の
席に招待してもらいました。

本人に直接会ったことはありませんが、
親近感がありました。

だから「持ち上げる」
わけではありませんが、
キャッチャーでこの成績なら、
一流だと思います。

しかし残念ながら
存在としては地味でしたので、
記録について語られることが
あまりありません。

また、キャッチャーという激務で
19年間も第一線で活躍できたのは、
何事にも研究熱心だったからでは
ないでしょうか。

そんな【木俣達彦】
ドラゴンズ歴代最高の
キャッチャーだと思います。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア




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5、関連記事





【中日ドラゴンズ】名選手列伝「マサカリパンチ・野球博士の木俣達彦」

最終更新日 2022年4月25日

目次

1、はじめに

2、6番木俣が流し打ち

3、マサカリパンチと野球博士

4、印象に残っていること

5、おわりに

action activity athletes baseball
Photo by Pixabay on Pexels.com

1、はじめに

【木俣達彦】は、
V9時代の強い「読売巨人軍」に
真っ向勝負で挑んだ「中日ドラゴンズ」の
正捕手です。

「野村克也」という
偉大な捕手がいましたが、
当時としては珍しい
「打てる捕手」でした。

そのバッティングは「マサカリ打法」
として、ヒットを量産しました。

また、日本の野球選手として
「トレーニング方法、器具、健康管理」を
熱心に研究した草分け的な存在で、
「野球博士」とも呼ばれていました。

そんな【木俣達彦】について紹介します。

知らない方も多いかと思いますが、
「中日ドラゴンズ」歴代NO1で、
当時はセ・リーグでもNO1の
キャッチャーを頭の片隅にでも
ぜひ入れて下さい。


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2、6番木俣が流し打ち

1974年(昭和49年)中日ドラゴンズが
読売巨人軍と激しい首位争いを
しているときに、
名古屋の放送局に山本正之が
作詞、作曲し、自らが歌う
「元祖、燃えよドラゴンズ」の
テープが送られてきました。

この歌を聞いた時「衝撃」を受けました。
リズムや歌詞、歌声が新鮮でした。

この歌が中日の20年ぶりのセ・リーグ優勝を
後押しになったと私は思いました。

この歌で【木俣達彦】
「6番木俣が流し打ち」と
歌われています。

元来【木俣達彦】は、
「プルヒッター(引っ張り専門)」で、
レフト方向の打球が多い選手でした。

さらに、プロ野球選手としては
「足が遅かった」ので、
三遊間、二遊間の深い所へ行った打球が
内野安打にならないケースが多く、
打率を残せませんでした。

それが1974年頃から、
ライト方向への打球が増え、
打率を残せるようになりました。

3、マサカリパンチと野球博士

(1)【木俣達彦】といえば
「マサカリパンチ」です。

マサカリとは:大型の斧のことで、
材木の伐採などに使われます。


バッターボックスに入るときに、
バットを担いで打席に入る姿や
バットをマサカリのように振り下ろす
姿が、
童話の「金太郎」のように見えることから
つけられました。

技術的には、ボールを上から叩ける
ように一本足で、グリップをいったん下げ
トップの位置へ持ってくる
独特な打撃フォームです。

(2)野球博士

【木俣達彦】はトレーニングや器具、
健康管理に惜しまず投資したので、
「野球博士」といわれていました。

自宅にトレーニングルームを作り、
バッティングマシン、トレーニング器具を
取り揃え、
常にトレーニング方法を研究していました。

また、キャッチャーマスクに
のどをガードする
「スロートガード」を
最初につけました。

健康管理にも注意していましたが、
その中で、
具体的にどんな療法か知りませんが、
【木俣達彦】が行っていた
「へその緒療法」という
言葉だけが頭に残っています。



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4、印象に残っていること

1974年10月12日、
中日20年ぶりの優勝の瞬間、
胴上げ投手の「星野仙一」に
【木俣達彦】が飛びつきました。

当時の優勝の瞬間といえば、
ピッチャーがキャッチャーに
飛びつくのが一般的でしたが、
【木俣達彦】が嬉しさのあまり
「星野仙一」に飛びついた
ことが、
【木俣達彦】の憎めない性格が
あらわれているようで
微笑ましかったです。

事実、年下の「星野仙一」からも
親しみを込めて「キーちゃん」と
呼ばれていました。

5、おわりに

いかがでしたか?
【木俣達彦】の紹介をしました。

「マサカリパンチ」
という豪快な打撃の反面
「野球博士」と呼ばれるほど
トレーニング、器具、健康に
気を使うという両極端が
【木俣達彦】
魅力ではないでしょうか。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア






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【元中日ドラゴンズ・谷沢健一】のプロフィールと選手成績を紹介!

最終更新日 2022年4月25日

目次

1、はじめに

2、谷沢健一プロフィール

3、選手成績

4、おわりに

5、関連記事

blue plastic chairs
Photo by Toni Cuenca on Pexels.com

1、はじめに

【谷沢健一】は、
選手として「中日ドラゴンズ」一筋で
途中、選手生命を脅かすほどの
アキレス腱痛を克服し、
打撃成績では「球団一」とも
いえる成績を残し
現役を引退しました。

現役を引退する時の監督
「星野仙一」との確執が
噂され
「現役引退」を余儀なくされた
との話もありましたが、
実際のところはわかりません。

また、打撃成績で偉大な数字を残し、
チームへの貢献度が
高かった選手だったので
引退後には「何らかの形で」チームに
関わるべきなのに全くありませんでした。

そこに何かの力が働いたとは
考えたくありませんが、
【谷沢健一】が指導者として
「中日ドラゴンズ」の
ユニホームを着る姿が見たかったです。

そんな【谷沢健一】のプロフィールと
選手成績を紹介します。

天才打者【谷沢健一】の凄さを
ぜひ感じて下さい。



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2、谷沢健一プロフィール

1947年9月22日:
千葉県東葛飾郡柏町(現柏市)生まれ

1963年4月:習志野市立習志野高校入学

1964年:習志野高校2年
外野手のレギュラー兼控え投手

1965年:習志野高校3年
夏の甲子園県予選で敗退
阪急ブレーブス(現オリックス)に
ドラフト指名も拒否

1966年:早稲田大学入学

1967年:春季リーグで首位打者を獲得

1968年:秋季リーグで優勝

1969年:野球部主将を務める

1970年:前年のドラフト会議で
1位指名の中日ドラゴンズに入団
新人王獲得

1971年:レギュラーに定着

1972年:3番打者に定着、
打率も.290を残し、
「石の上にも3年」と言われた

1973年:一塁手に定着し、
自己最高打率.295を記録

1974年:
自己最多ホームラン22本を記録し、
20年ぶりのセ・リーグ優勝に貢献

1976年:打率.355で初の首位打者
初のベストナイン

1976年9月4日:大洋(現横浜DeNA)戦で
プロ入り通算100号ホームラン

1977年6月29日:ヤクルト戦で
プロ入り通算1000本安打

1977年9月23日:阪神戦で
プロ入り通算1000試合出場

1978年:アキレス腱痛悪化

1979年9月23日:大洋戦で
代打して出場し復帰

1980年:打率。369で
2度目の首位打者
カムバック賞受賞
ベストナイン

1981年4月22日:阪神戦で
プロ入り通算150号ホームラン

1981年9月:4打席連続ホームラン

1982年6月27日:ヤクルト戦で
プロ入り通算1500本安打
ベストナイン

1983年:ベストナイン

1983年5月17日:広島戦で
プロ入り通算1500試合出場

1983年6月1日:読売戦で
プロ入り通算200号ホームラン

1983年8月4日:大洋戦で
プロ入り通算300二塁打

1984年:自己最多の34ホームラン
セ・リーグ最多出塁数
ベストナイン

1984年9月29日:広島戦で
プロ入り通算3000塁打

1985年4月16日:横浜戦で
プロ入り通算250号ホームラン

1985年10月23日:広島戦で
プロ入り通算2000本安打

1986年:現役引退

1994年~1995年:西武ライオンズ
打撃コーチ





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3、選手成績

年度球団試合打率本塁打打点
1970中日126.2511145
1971中日123.2601641
1972中日130.2901553
1973中日126.2951045
1974中日125.2902277
1975中日129.2941771
1976中日127.3551152
1977中日130.3121455
1978中日70.283218
1979中日11.16700
1980中日120.3692780
1981中日127.3182879
1982中日129.2802185
1983中日130.3152187
1984中日130.3293499
1985中日104.2891147
1986中日94.2731335
通算17年1931.302273969
谷沢健一選手成績

4、おわりに

【谷沢健一】は、2000本安打以上、
通算打率も、3割以上と
素晴らしい成績を残しましたが、
長嶋茂雄、王貞治、田淵幸一、
山本浩二といった打者に比べると
地味な存在でした。

しかし「中日ドラゴンズ」では、
紛れもない「スーパースター」でした。

自らの「引退試合」でホームランを放ち、
まだまだ「現役!」と
アピールしたように思えてなりません。

この時点で、球団や監督との確執が
噂されていたので、
なおのことそのように思いました。

今後「中日ドラゴンズ」のユニホームを
着ることはないかと思いますが、
どこかでもう一人の【谷沢健一】
育ててくれることを期待します。

いいぞ!がんばれ!【谷沢健一】

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウィキペディア

5、関連記事




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【中日ドラゴンズ】名選手列伝「アキレス腱痛に悩んだ天才打者・谷沢健一」

最終更新日 2022年5月26日

目次

1、はじめに

2、5番谷沢がクリーンヒット

3、谷沢健一2度の奇跡!

4、おわりに

white baseball ball on brown leather baseball mitt
Photo by Steshka Willems on Pexels.com

1、はじめに

【谷沢健一】は、1970年当時の東京六大学最高の
通算打率3割6分の記録を引っ提げて
早稲田大学より
鳴り物入りで「中日ドラゴンズ」に入団しました。

主砲の「江藤慎一」が抜け、
長距離砲が喉から手が出るほど
欲しかったので、
新人とはいえ、大きな期待を持っての
入団でした。

順風満帆に見えた選手生活でしたが、
陰では大学時代からのアキレス腱痛に
泣かされていましたが、
何とか庇ってプレーしていました。

それがついに、
悪化し歩くのにも困難になりました。

その後、苦難の日々を送る【谷沢健一】
「日本酒療法」と出会い、
アキレス腱痛を克服し
見事に復活します。

今回は、このような【谷沢健一】
紹介をします。





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2、5番谷沢がクリーンヒット

山本正之・作詞・作曲の
元祖「燃えよドラゴンズ」では、
「5番谷沢がクリーンヒット!」と
歌われています。

この歌のように【谷沢健一】の魅力は、
糸を引くようなライナーのヒットです。

アキレス腱痛の克服後、
ホームランが増えましが、
中距離砲として魅力がありました。

3、谷沢健一2度の奇跡!

(1)1976年・張本勲との
首位打者争いの奇跡

1976年【谷沢健一】は初の首位打者を
獲得します。

その獲得の仕方が凄まじく、
現在でも話題になることがあります。

この年の9月末の時点で、
首位打者争いは「張本勲」
「若松勉(元ヤクルト)
【谷沢健一】の3人に絞られました。

とはいえ、
この時点で1位の張本との差は
約1分6厘。
若松との差は約1分5厘で、
簡単に追い越せる数字では
ありませんでした。

ところが10月に入ると
5割以上の驚異的な打率を残し、
張本との首位打者争いを
しました。

この争いは最終戦まで、
持ち越されました。

全ての日程を終えてた「張本」は
【谷沢健一】の結果を待つ
という状況でした。

【谷沢健一】は運命の最終戦、
10月19日のナゴヤ球場での
広島戦を迎えました。

この試合で
4打数3安打以上で首位打者になる
という状況だったので、
大方の見方は
「張本の首位打者確定」でしたが、
ファンは奇跡を信じていました。

当時「ナゴヤ球場の最終戦」は、
外野席が無料開放されていましたので、
私ももこの試合を見るために、
ナゴヤ球場に向かいました。

入場門を入る少し前に大歓声が聞こえて
きたので「もしや?」と思い急ぎましたが、
これが首位打者を決定した
センター前のヒットでした。

その瞬間を見ることは
できませんでしたが
奇跡を信じ球場に足を運び、
良かったと思いましたし、
【谷沢健一】の凄まじさを感じました。

この時の張本との差は6糸(0.00006)で
史上最も小さい差でした。

(2)アキレスけん痛を克服し奇跡の復帰

【谷沢健一】がアキレス腱痛で、
歩くのも困難で試合に出られなくなった
1978年の後半から、
1979年頃は「引退」するのでは?
と心配でした。

その間【谷沢健一】はアキレス腱痛を
克服するために全国の良いといわれる
治療法を試しましたが、
上手くいかず、苦難のどん底でした。

そんな中「藁尾もすがる」気持ちで
受けた治療が「日本酒療法」です。

日本酒療法とは:
日本酒を入れたお風呂に入り、
アキレス腱を入念にマッサージする
療法。


この話を聞いた時に「日本酒療法」で
本当に効果があるのか、心配でした。

しかし、こんな私の思いを
良い意味で裏切ってくれました。

治療院の先生と、本人の「絶対に治す」と
いう強い思いと努力で
復活する日が来ました。

1979年のシーズン終盤のナゴヤ球場での
大洋ホエールズ(現横浜DeNA
代打での出場の場面が巡ってきました。

私はこの試合をラジオで聞いていましたが、
「バッター・谷沢・背番号41」
アナウンスされると正に「割れんばかり」の
大声援になりました。

結果はどうでもいい!バッターボックスに
「背番号41」が立ったことが、
ファンにとっては「最高の喜び」です。

そんな【谷沢健一】が、この場合でも
ヒットを打ってくれて「奇跡の復活」を
ファンに魅せてくれました。

その後は特製のスパイクと
リラックスして打席に立つことを
心掛け
「アキレス腱痛克服」前よりも
チャンスに強いバッティングで、
好成績を残しチームにも貢献しました。




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4、おわりに

いかがでしたか?
【谷沢健一】の紹介をしました。

紹介したように、2度の奇跡を起こし、
ファンに希望を与えてくれた
【谷沢健一】を私は、
「ドラゴンズ史上・最強打者!」
だと思っています。

今も
「糸を引くようなライナーのヒット」が
頭に残っています。

最後まで読んで頂きありがとうございます。





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【元中日・中利夫】のプロフィール・選手、監督成績を紹介!

最終更新日 2021年6月25日

目次
1、はじめに
2、プロフィール
3、選手成績
4、監督成績
5、おわりに

baseball field fisheye lens photo
Photo by Shawn Reza on Pexels.com

1、はじめに

走攻守3拍子揃った【中利夫】は、
V9真っただ中の「強い読売巨人軍」の
ライバル球団「中日ドラゴンズ」の
1番センターで活躍しました。

選手時代は華やかでしたが、
監督としては「いい成績」を
残せませんでした。

そこには【中利夫】の勝負師としては、
優しい性格が災いしたのではないかと、
私が勝手に思っています。

そんな【中利夫】のプロフィール、
選手、監督の成績を紹介します。

数字での【中利夫】
知って頂き、
オールドファンには懐かしさを、
若い方には新鮮さを
ぜひ味わって下さい。





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2、プロフィール

1936年4月28日:群馬県前橋市生まれ

1952年4月:群馬県立前橋高校入学
野球部に入部し、
秋からはエースで中心打者。

1953年:夏の選手権、県予選準決勝で敗退。

1954年:夏の選手権、ケガのため
1回戦敗退。

1955年:中日ドラゴンズ入団。

1955年4月14日:広島戦でプロ初安打。
ノーヒットノーランを
その後の代名詞ともなる
「ドラッグバンド」で阻止。

1956年:開幕から1番センターで
スタメン出場。
初の規定打席到達。

1957年~1959年:出場試合100試合以下、
規定打席にも達しない低迷が続いた。

1960年:50盗塁で盗塁王。80得点で得点王。
初の3割を記録。

1961年:88得点で得点王。

1963年:刺殺数350でセ・リーグ新記録。

1964年:プロ入り通算1000試合出場。

1965年:プロ入り通算1000本安打達成。
刺殺数350を記録。

1966年:プロ入り通算100号ホームラン達成。
2度目の3割達成。

1967年:初の首位打者獲得。

1968年:3年連続3割達成。

1969年:記録づくめの年。
プロ入り通算1500試合出場。
プロ入り通算1500安打達成。
プロ入り通算300盗塁達成。

1972年:現役引退。


1973年~1976年:中日2軍打撃コーチ。

1978年~1980年:中日1軍監督。

1981年~1983年:評論家生活。

1984年:中日1軍打撃コーチ。

1985年:中日1軍作戦守備コーチ。

1986年:評論家生活。

1987年~1988年:広島東洋カープ
2軍打撃コーチ。

1989年~1990年:広島2軍監督。

1991年~:評論家生活。

タイトル

首位打者:1967年
盗塁王:1960年
ベストナイン:
1960年、1965年、1967年、1970年

3、選手成績

年度球団試合打率本塁打打点盗塁
1955中日17.176002
1956中日119.26232614
1957中日87.23621715
1958中日97.24852426
1959中日75.266153810
1960中日130.31273150
1961中日128.271133930
1962中日127.27563311
1963中日136.246134527
1964中日133.262144427
1965中日133.28363326
1966中日122.322184722
1967中日101.343103625
1968中日61.32851714
1969中日119.290105019
1970中日116.27272910
1971中日108.21842012
1972中日68.2311127
通算:18年1877.277139541347
           中利夫選手成績 赤字はタイトル






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4、監督成績

年度球団試合引分勝率順位
1978中日13053716.4275
1979中日130595714.5093
1980中日13045769.3726
通算:3年39015720429.435
           中利夫監督成績

5、おわりに

【中利夫】は、
168㎝という小柄な体で、
18年もの間プロの厳しい戦いの場で、
活躍できたのは
天性の俊敏さだけでなく
「自分ことをよく知った」
上での「技術の向上」
「頭を使った野球」ができたから
ではないでしょうか?

それはまさに「職人技」です。

中日ドラゴンズに「中利夫」という
職人が在籍していたことを、
私は忘れません。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

参考資料:ウイキペディア





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