【中日ドラゴンズ】名選手列伝「一発長打の大島君・大島康徳」

最終更新日 2022年5月20日

目次

1、はじめに


2、一発長打の大島君


3、交通事故


4、トレード


5、おわりに


6、関連記事

1、はじめに

【大島康徳】の中日ドラゴンズでの現役時代
には色々と元気をもらいました。

日本ハムファイターズへの移籍後は
ほとんど「情報」が
入ってこなかったので知りませんが
トレードで
人間的にも、野球人としても大きくなったと
感じます。

そのような【大島康徳】が「大腸がん」で
肝臓にも転移していてステージ4と聞き
大変ショックを受けました。

テレビで姿を拝見した時は、痩せこけて
元気がなく私が知っている現役時代の若々しい
【大島康徳】ではありませんでした。

ファンとしては「頑張ってほしい」と思いますが
本人は「頑張れ」と言って欲しくないと言っている
そうです。

現在【大島康徳】が「がんと共存」している姿に
元気と勇気をもらっています。

そんな【大島康徳】の中日ドラゴンズ時代の
記憶に残っている事を紹介します。
ぜひ参考にして下さい。

スタジアム


2、一発長打の大島君


1969年に中日ドラゴンズに入団しましたが、
入団当初から「将来の4番候補」が
二軍にいると騒がれていました。

いつ一軍に上がって来るのか楽しみに
していましたが、なかなか上がって
来ませんでした。

初出場は1971年6月17日でいきなり
「スタメン」でした。

この試合で「初ホームラン」を放ち
「近い将来の4番」を期待させてくれました。

1972年は初めて規定打席に到達しました。

この年で私が今でも印象に残っているのが 
8月2日のヤクルトアトムズとの試合で
1イニング2ホームランという記録を作った事です。
しかも2本目は満塁ホームランでした。

この試合はラジオで聞いていましたが
本当に信じられないことをやってくれる選手
だと思いました。

この年のオフ将来を嘱望されていた
「谷沢健一」「島谷金二」と共に
アメリカ留学しました。

この時にどこかの観光地で撮った写真が
新聞か雑誌か覚えていませんが
掲載されていました。

その時の顔が「観光気分」に私が見えたのを
憶えています。

1973年は「アメリカ留学」の効果が期待されましたが
期待通りに結果がでませんでした。

1974年はスタメン出場があったものの
主に代打での活躍で「江藤省三」「飯田幸男」らと
奇跡的な代打成功率で「中日20年ぶりの優勝」
貢献しました。

この年のシーズン後半に「山本正之作詞・作曲」
「燃えよドラゴンズ」が発売され
【大島康徳】「一発長打の大島君」と歌われていました。

この年は【長嶋茂雄】「引退」の話で持ち切りで
「中日20年ぶりの優勝」の話題は
「東海地方」以外ではかき消された状況でした。

【長嶋茂雄引退試合】は10月14日で
「中日の優勝パレード」と重なりました。


(長嶋茂雄引退試合の詳細はこちらからどうぞ)


当時の中日の打の主力「高木守道」
投の主力「星野仙一」【長嶋茂雄】
「引退試合」に出られないことを詫びて
パレードに出ました。


(高木守道の詳細はこちらからどうぞ)


中日としては【偉大な長嶋茂雄引退試合】
礼を尽くすために【一発長打の大島君】
出場させました。

当時の【一発長打の大島君】は東海地方では
絶大な人気があり
パレートで見る事ができないので
残念がるファンも多かったです。

【長嶋茂雄引退セレモニー】では
【大島康徳】が中日を代表して【長嶋茂雄】
花束を渡しました。





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3、交通事故

【大島康徳】は期待されつつも
レギュラーに定着できませんでした。

そんな中1976年には代打で大活躍して
「勝負強さ」を見せてくれ
代打ホームラン7本の日本記録を
作ってくれました。

1977年は初めて期待通りの活躍をしてくれた
シーズンでした。
よく打ったという記憶のシーズンですが
何と言っても2回目の1イニング2ホームランです。
8月9日の巨人戦で記録しました。
前回と同じで2本目は満塁ホームランでした。

1978年はシーズン通して不調でした。
1979年は自己最多の36ホームランと
103打点を記録しチームのAクラス入りに貢献しました。

1980年はシーズンに入って間もなく
交通事故(自損事故)で目の負傷と骨折の
大けがをしました。

突然入ってきたニュースで大変驚いたのを
憶えています。

目の負傷が心配で、目に異物が刺さり
失明のピンチと言われていました。

正直なところ諦めていました。

しかし、1ヶ月位で奇跡の復帰をしました。
復帰後は、結果が出ないため「罵声」を
浴びることもありました。

この時点ではまだ骨折が治ってなかったと
後でわかりました。
ほんとに驚きの話です。

この時の【大島康徳】には「勇気」
もらいました。





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3、トレード

交通事故後の成績は安定し
【中日の顔・大島康徳】になりました。

1982年「近藤貞夫監督」の時には
「野武士野球」の中心打者として打ちまくりました。

特に9月28日のナゴヤ球場での巨人戦で
当時巨人の絶対的エースの「江川卓」から
6-2で負けていた試合で9回裏、奇跡の逆転の
口火を切る犠牲フライを放ち
その後連打で同点に追いつきました。

10回の裏に2アウト満塁からセンター前へ
サヨナラヒットを打ち「マジック12」
点灯させる活躍をしたことが印象に
残っています。

1985年の「山内一弘監督」の時に
西武ライオンズへのトレード話があり
驚きましたが
実現しなくて良かったという印象があります。

1987年「星野仙一監督」の時にチーム事情を理由に
日本ハムファイターズにトレードに出されて
しまいました。

この時は何て酷いことをするのだろうと
思うと同時に【大島康徳】が中日から
いなくなる寂しさを感じました。

後々わかったのですが、
この後「星野仙一監督」【大島康徳】
為に尽力していました。


5、おわりに

【大島康徳】の中日時代の魅力は
「フルスイング」です。

それから飛び出す「ホームラン」は
夢と希望を与えてくれました。

チャンスに三振や併殺打で「ため息」に変わる
ことも多かったのですが、
「フルスイング」に魅了され続けました。

【大島康徳】の時代の本拠地は
中日球場・ナゴヤ球場で
スタンドとグランドの距離が近いため
エラー、三振、併殺打の時は
「名古屋弁」のキツイ野次が聞こえました。

しかし、それをはね返す「フルスイング」
ホームランを打ち「かえるジャンプ」
楽しませてくれました。

「一発長打の大島君」は今でも記憶に残っています。

これからも「元気にがんと共存」して下さい。

最後までお読みいただき有難うございます。

参考資料:Wikipedia

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