中日ドラゴンズ名選手列伝【一発長打の大島君・大島康徳】

最終更新日 2023年11月7日

2021年6月30日午前・大腸がんのため
亡くなられました。

ご冥福をお祈りいたします。






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1、はじめに


【大島康徳】
中日ドラゴンズでの現役時代
には色々と元気をもらいました。


日本ハムファイターズへの移籍後は
ほとんど「情報」
入ってこなかったので知りませんが
トレードで
人間的にも、
野球人としても大きくなったと
感じます。


そのような【大島康徳】
「大腸がん」
肝臓にも転移していてステージ4と聞き
大変ショックを受けました。


テレビで姿を拝見した時は、
痩せこけて
元気がなく私が知っている
現役時代の若々しい
【大島康徳】ではありませんでした。


ファンとしては
「頑張ってほしい」と思いますが
本人は「頑張れ」と
言って欲しくないと言っている
そうです。


現在【大島康徳】
「がんと共存」している姿に
元気と勇気をもらっています。


そんな【大島康徳】
中日ドラゴンズ時代の
記憶に残っている事を紹介します。
ぜひ参考にして下さい。

プロ野球
フルスイングが魅力

2、一発長打の大島君


1969年に
中日ドラゴンズに入団しましたが、
入団当初から「将来の4番候補」
二軍にいると騒がれていました。


いつ一軍に上がって来るのか楽しみに
していましたが、
なかなか上がって来ませんでした。


初出場は1971年6月17日でいきなり
「スタメン」でした。


この試合で「初ホームラン」を放ち
「近い将来の4番」
期待させてくれました。


1972年には初めて規定打席に
到達しました。


この年で私が今でも印象に残っているのが 
8月2日のヤクルトアトムズとの試合で
1イニング2ホームランという記録を
作った事です。


しかも2本目は満塁ホームランでした。


この試合はラジオで聞いていましたが
本当に信じられないことを
やってくれる選手だと思いました。


この年のオフ将来を嘱望されていた
「谷沢健一」
「島谷金二」
と共にアメリカ留学しました。


この時にどこかの観光地で撮った写真が
新聞か雑誌か覚えていませんが
掲載されていました。


その時の顔が「観光気分」
私には見えたのを憶えています。


1973年は「アメリカ留学」
効果が期待されましたが
期待通りに結果がでませんでした。


1974年はスタメン出場があったものの
主に代打での活躍で
「江藤省三」
「飯田幸男」らと
奇跡的な代打成功率で
「中日20年ぶりの優勝」
貢献しました。


この年のシーズン後半に
「山本正之作詞・作曲」
「燃えよドラゴンズ」が発売され
【大島康徳】
「一発長打の大島君」と歌われていました。


この年は【長嶋茂雄引退」
話で持ち切りで
「中日20年ぶりの優勝」の話題は
「東海地方」以外ではかき消された
状況でした。


【長嶋茂雄引退試合】は10月14日で
「中日の優勝パレード」と重なりました。


(長嶋茂雄引退試合の詳細はこちらからどうぞ)


当時の中日の
打の主力「高木守道」
投の主力「星野仙一」
【長嶋茂雄】
「引退試合」に出られないことを詫びて
パレードに出ました。


(高木守道の詳細はこちらからどうぞ)


中日としては【偉大な長嶋茂雄引退試合】
礼を尽くすために【一発長打の大島君】
出場させました。


当時の【一発長打の大島君】は東海地方では
絶大な人気があり
パレートで見る事ができないので
残念がるファンも多かったです。


【長嶋茂雄引退セレモニー】では
【大島康徳】が中日を代表して
【長嶋茂雄】に花束を渡しました。









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3、交通事故


【大島康徳】は期待されつつも
レギュラーに定着できませんでした。


そんな中1976年には代打で大活躍して
「勝負強さ」を見せてくれ
代打ホームラン7本の日本記録を
作ってくれました。


1977年は初めて期待通りの
活躍をしてくれたシーズンでした。


よく打ったという
記憶のシーズンですが
何と言っても
2回目の1イニング2ホームランです。


8月9日の巨人戦で記録しました。
前回と同じで2本目は
満塁ホームラン
でした。


1978年はシーズン通して不調でした。


1979年は自己最多の
36ホームランと103打点を記録し
チームのAクラス入りに貢献しました。


1980年はシーズンに入って間もなく
交通事故(自損事故)で
目の負傷と骨折の大けがをしました。


突然入ってきたニュースで
大変驚いたのを憶えています。


目の負傷が心配で、
目に異物が刺さり
失明のピンチと言われていました。


正直なところ諦めていました。


しかし、
1ヶ月位で奇跡の復帰をしました。


復帰後は、
結果が出ないため「罵声」
浴びることもありました。


この時点ではまだ骨折が
治ってなかったと後でわかりました。


ほんとに驚きの話です。


この時の【大島康徳】には
「勇気」
もらいました。

野球
1イニング2ホーマーを
2回記録




4、トレード


交通事故後の成績は安定し
【中日の顔・大島康徳】
なりました。


1982年「近藤貞夫監督」の時には
「野武士野球」の中心打者として
打ちまくりました。


特に9月28日のナゴヤ球場での巨人戦で
当時巨人の絶対的エースの
「江川卓」から
6-2で負けていた試合で
9回裏、奇跡の逆転の
口火を切る犠牲フライを放ち
その後連打で同点に追いつきました。


10回の裏に2アウト満塁からセンター前へ
サヨナラヒットを打ち
「マジック12」
点灯させる活躍をしたことが
印象に残っています。


1985年の「山内一弘監督」の時に
西武ライオンズへのトレード話があり
驚きましたが
実現しなくて良かったという
印象があります。


1987年「星野仙一監督」の時に
チーム事情を理由に
日本ハムファイターズに
トレードに出されてしまいました。


この時は何て酷いことを
するのだろうと思うと同時に
【大島康徳】が中日から
いなくなる寂しさを感じました。


後々わかったのですが、
この後「星野仙一監督」
【大島康徳】
為に尽力していました。







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5、おわりに


【大島康徳】の中日時代の魅力は
「フルスイング」です。


それから飛び出す「ホームラン」
夢と希望を与えてくれました。


チャンスに三振や併殺打で
「ため息」に変わる
ことも多かったのですが、
「フルスイング」
魅了され続けました。


【大島康徳】の時代の本拠地は
中日球場・ナゴヤ球場で
スタンドとグランドの距離が近いため
エラー、三振、併殺打の時は
「名古屋弁」のキツイ野次が
聞こえました。


しかし、
それをはね返す「フルスイング」
ホームランを打ち
「かえるジャンプ」
楽しませてくれました。


「一発長打の大島君」
今でも記憶に残っています。


これからも
「元気にがんと共存」して下さい。





最後までお読みいただき有難うございます。


参考資料:Wikipedia





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