大島康徳(元中日ドラゴンズ)プロフィール・選手・監督成績

野球

最終更新日 2023年11月8日

2021年6月30日午前・大腸がんのため
亡くなられました。

ご冥福をお祈りいたします。









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1、はじめに


【大島康徳】は、
高校入学まで野球経験がなく
アマチュアとしての経験が3年だけで
プロ野球界に入ってきました。


プロ野球界に入るきっかけは
「長嶋茂雄」が地方大会で
「特大のホームラン」を打ち
スカウトの目に留まったように
【大島康徳】も地方大会で打った
「特大のホームラン」
スカウトの目に留まったからだと
言われています。


入団当時は「一発長打」
魅力はありましたが
三振も多く「粗削り」でした。


そのような【大島康徳】
26年も「現役」を続けることが
出来ました。


そして2000本安打も達成し、
名球会にも入りました。


そこまでできたのは、
身体能力高さもありますが、
努力がなければ
続けることはできなかったはずです。


そこで努力の跡を
プロフィールや年度別の成績で
追いかけてみました。


参考にして頂ければ幸いです。

プロ野球
高校で初めての野球経験

2.プロフィール


1950年10月16日:大分県中津市生まれ


今津中学校時代:バレーボール、相撲で活躍


中津工業高校時代:野球経験なしでも
エースで4番で活躍


1968年11月12日:ドラフト会議で
中日に3位指名。

1位指名は星野仙一


1971年6月17日
中日球場のヤクルト戦で1軍初出場、
初安打、初ホームラン
初打点を記録。


1972年8月2日
神宮球場のヤクルト戦で
1イニング2ホームランを記録。


1972年:初の規定打席に到達。


1974年:20年ぶりのセ・リーグ優勝。


1975年9月10日
広島市民球場での広島戦で
判定を巡りファンが乱入
中日の選手に暴行、負傷を負わせる。

大島を始め多数の選手が負傷。

その後の試合を欠場。

この影響でV2を逃す。


1976年6月22日
ナゴヤ球場のヤクルト戦で
シーズン最多代打ホームランの
日本記録を達成。


1977年8月9日
ナゴヤ球場の巨人戦で
1イニング2ホームランを記録。

自身2度目で2本目は
前回同様満塁ホームラン。


1977年:初の3割を達成。


1978年9月27日
ナゴヤ球場の阪神戦で
通算100号ホームラン達成。


1979年10月8~17日
5試合連続ホームラン。


1979年:全試合4番で出場。
リーグ最多安打156本。


1980年4月12日
神宮球場のヤクルト戦で
通算1000試合出場達成。


1980年4月14日:交通事故により負傷欠場


1980年8月30日
ナゴヤ球場の阪神戦で
通算150号ホームラン達成。


1981年9月11日
広島市民球場の広島戦で
通算1000本安打達成。


1982年:5番打者として
セ・リーグ優勝に貢献。


1983年4月29日
神宮球場のヤクルト戦で
通算200号ホームラン達成。


1983年:ホームラン36本で
初のホームラン王獲得。


1984年4月22日
後楽園球場の巨人戦で
通算1500試合出場。


1984年6月21日
ナゴヤ球場のヤクルト戦で
通算250号ホームラン達成。


1985年10月2日
ナゴヤ球場のヤクルト戦で
通算1000三振を記録。


1986年4月16日
後楽園球場の巨人戦で
通算1500本安打達成。


1986年8月15日
ナゴヤ球場の阪神戦で
通算300号ホームラン達成。


1987年:シーズン終了後、
日本ハムファイターズへ移籍。


1988年6月28日
東京ドームの近鉄戦で
通算2000試合出場。


1988年7月21日
西宮球場の阪急戦で
通算3000塁打達成。


1988年9月23日
東京ドームのロッテ戦で
通算1000打点達成。


1989年8月13日
東京ドームの近鉄戦で
通算350号ホームラン達成。


1990年8月21日
西宮球場のオリックス戦で
通算2000本安打達成。


1990年9月9日
宇都宮清原球場の近鉄戦で
通算300二塁打達成。


1991年5月28日
川崎球場のロッテ戦で
通算1000得点記録。


1991年6月1日
水戸市民球場の近鉄戦で
通算3500塁打達成。


1992年8月20日
東京ドームの西武戦で
2500試合出場。


1994年5月4日
西武球場の西武戦で43歳6か月の
最年長満塁ホームランを記録。


1994年9月28日
東京ドームのロッテ戦で引退試合。

26年間のプロ野球選手引退








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3、選手成績


年   度球   団出場 試合打  率 ホームラン打   点
1971中日74.203722
1972中日124.2301438
1973中日117.2411342
1974中日112.2581146
1975中日91.278423
1976中日123.2511133
1977中日126.3332771
1978中日98.2811547
1979中日130.31736103
1980中日108.2511846
1981中日130.3012381
1982中日124.2691860
1983中日130.2903694
1984中日130.2803087
1985中日101.2652356
1986中日110.2602045
1987中日111.2691549
中日 計1939.274321894
1988日本ハム130.2761563
1989日本ハム130.2651859
1990日本ハム110.2671150
1991日本ハム120.2511061
1992日本ハム98.258528
1993日本ハム47.26208
1994日本ハム64.323222
日本ハム計 699.26761340
通算2638.2723821234
選手成績
野球
日本ハムで監督


4、監督成績


年度球団順位試合 勝 負引分勝率
2000日本ハム3位13569651.515
2001日本ハム6位14053843.387
2002日本ハム5位14061763.445
合計4131812257.446
監督成績





最後まで読んで頂きありがとうございます。








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5、関連記事










中日ドラゴンズ名選手列伝【一発長打の大島君・大島康徳】

野球

最終更新日 2023年11月7日

2021年6月30日午前・大腸がんのため
亡くなられました。

ご冥福をお祈りいたします。






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1、はじめに


【大島康徳】
中日ドラゴンズでの現役時代
には色々と元気をもらいました。


日本ハムファイターズへの移籍後は
ほとんど「情報」
入ってこなかったので知りませんが
トレードで
人間的にも、
野球人としても大きくなったと
感じます。


そのような【大島康徳】
「大腸がん」
肝臓にも転移していてステージ4と聞き
大変ショックを受けました。


テレビで姿を拝見した時は、
痩せこけて
元気がなく私が知っている
現役時代の若々しい
【大島康徳】ではありませんでした。


ファンとしては
「頑張ってほしい」と思いますが
本人は「頑張れ」と
言って欲しくないと言っている
そうです。


現在【大島康徳】
「がんと共存」している姿に
元気と勇気をもらっています。


そんな【大島康徳】
中日ドラゴンズ時代の
記憶に残っている事を紹介します。
ぜひ参考にして下さい。

プロ野球
フルスイングが魅力

2、一発長打の大島君


1969年に
中日ドラゴンズに入団しましたが、
入団当初から「将来の4番候補」
二軍にいると騒がれていました。


いつ一軍に上がって来るのか楽しみに
していましたが、
なかなか上がって来ませんでした。


初出場は1971年6月17日でいきなり
「スタメン」でした。


この試合で「初ホームラン」を放ち
「近い将来の4番」
期待させてくれました。


1972年には初めて規定打席に
到達しました。


この年で私が今でも印象に残っているのが 
8月2日のヤクルトアトムズとの試合で
1イニング2ホームランという記録を
作った事です。


しかも2本目は満塁ホームランでした。


この試合はラジオで聞いていましたが
本当に信じられないことを
やってくれる選手だと思いました。


この年のオフ将来を嘱望されていた
「谷沢健一」
「島谷金二」
と共にアメリカ留学しました。


この時にどこかの観光地で撮った写真が
新聞か雑誌か覚えていませんが
掲載されていました。


その時の顔が「観光気分」
私には見えたのを憶えています。


1973年は「アメリカ留学」
効果が期待されましたが
期待通りに結果がでませんでした。


1974年はスタメン出場があったものの
主に代打での活躍で
「江藤省三」
「飯田幸男」らと
奇跡的な代打成功率で
「中日20年ぶりの優勝」
貢献しました。


この年のシーズン後半に
「山本正之作詞・作曲」
「燃えよドラゴンズ」が発売され
【大島康徳】
「一発長打の大島君」と歌われていました。


この年は【長嶋茂雄引退」
話で持ち切りで
「中日20年ぶりの優勝」の話題は
「東海地方」以外ではかき消された
状況でした。


【長嶋茂雄引退試合】は10月14日で
「中日の優勝パレード」と重なりました。


(長嶋茂雄引退試合の詳細はこちらからどうぞ)


当時の中日の
打の主力「高木守道」
投の主力「星野仙一」
【長嶋茂雄】
「引退試合」に出られないことを詫びて
パレードに出ました。


(高木守道の詳細はこちらからどうぞ)


中日としては【偉大な長嶋茂雄引退試合】
礼を尽くすために【一発長打の大島君】
出場させました。


当時の【一発長打の大島君】は東海地方では
絶大な人気があり
パレートで見る事ができないので
残念がるファンも多かったです。


【長嶋茂雄引退セレモニー】では
【大島康徳】が中日を代表して
【長嶋茂雄】に花束を渡しました。









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3、交通事故


【大島康徳】は期待されつつも
レギュラーに定着できませんでした。


そんな中1976年には代打で大活躍して
「勝負強さ」を見せてくれ
代打ホームラン7本の日本記録を
作ってくれました。


1977年は初めて期待通りの
活躍をしてくれたシーズンでした。


よく打ったという
記憶のシーズンですが
何と言っても
2回目の1イニング2ホームランです。


8月9日の巨人戦で記録しました。
前回と同じで2本目は
満塁ホームラン
でした。


1978年はシーズン通して不調でした。


1979年は自己最多の
36ホームランと103打点を記録し
チームのAクラス入りに貢献しました。


1980年はシーズンに入って間もなく
交通事故(自損事故)で
目の負傷と骨折の大けがをしました。


突然入ってきたニュースで
大変驚いたのを憶えています。


目の負傷が心配で、
目に異物が刺さり
失明のピンチと言われていました。


正直なところ諦めていました。


しかし、
1ヶ月位で奇跡の復帰をしました。


復帰後は、
結果が出ないため「罵声」
浴びることもありました。


この時点ではまだ骨折が
治ってなかったと後でわかりました。


ほんとに驚きの話です。


この時の【大島康徳】には
「勇気」
もらいました。

野球
1イニング2ホーマーを
2回記録




4、トレード


交通事故後の成績は安定し
【中日の顔・大島康徳】
なりました。


1982年「近藤貞夫監督」の時には
「野武士野球」の中心打者として
打ちまくりました。


特に9月28日のナゴヤ球場での巨人戦で
当時巨人の絶対的エースの
「江川卓」から
6-2で負けていた試合で
9回裏、奇跡の逆転の
口火を切る犠牲フライを放ち
その後連打で同点に追いつきました。


10回の裏に2アウト満塁からセンター前へ
サヨナラヒットを打ち
「マジック12」
点灯させる活躍をしたことが
印象に残っています。


1985年の「山内一弘監督」の時に
西武ライオンズへのトレード話があり
驚きましたが
実現しなくて良かったという
印象があります。


1987年「星野仙一監督」の時に
チーム事情を理由に
日本ハムファイターズに
トレードに出されてしまいました。


この時は何て酷いことを
するのだろうと思うと同時に
【大島康徳】が中日から
いなくなる寂しさを感じました。


後々わかったのですが、
この後「星野仙一監督」
【大島康徳】
為に尽力していました。







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5、おわりに


【大島康徳】の中日時代の魅力は
「フルスイング」です。


それから飛び出す「ホームラン」
夢と希望を与えてくれました。


チャンスに三振や併殺打で
「ため息」に変わる
ことも多かったのですが、
「フルスイング」
魅了され続けました。


【大島康徳】の時代の本拠地は
中日球場・ナゴヤ球場で
スタンドとグランドの距離が近いため
エラー、三振、併殺打の時は
「名古屋弁」のキツイ野次が
聞こえました。


しかし、
それをはね返す「フルスイング」
ホームランを打ち
「かえるジャンプ」
楽しませてくれました。


「一発長打の大島君」
今でも記憶に残っています。


これからも
「元気にがんと共存」して下さい。





最後までお読みいただき有難うございます。


参考資料:Wikipedia





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落合博満の【プロフィール・選手、監督成績】を話題のタネに!

バンテリンドーム

最終更新日 2024年2月3日




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1、はじめに


「名選手、名監督にあらず」
という言葉がありますが、
【落合博満】は「名選手で名監督」でした。


選手、監督時代を通して
「有言実行」で、言ったことは
ほぼ実現してきましが、
言葉として話すことは
「必要」な事だけでした。


だから「誤解」を招くこともありました。


しかし、
決して間違った事は言いませんでした。


【落合博満】は学生時代から
プロ入りまで
特異な経験をしています。


その中でもプロ入り時の
出来事が印象的です。


プロ入りは25歳という
遅い年齢でした。


ドラフト会議では
読売巨人軍から
2位で指名される予定でしたが、
この年「江川事件」が発生し、
幻となりました。


これ一つとっても
プロ野球選手、監督としては
想像できない経歴です。


しかし、プロ野球選手、監督として
輝かしい実績を残しました。


また同じ名将と言われる
「野村克也」とよく比較されます。


共に「常に将来を考えている」
という共通点がありますが
「野村克也」はマスコミによく話し
試合前のミーティングが長いのに対して

【落合博満】はマスコミに対して
あまり話さない
試合前のミーティングをしないという
正反対のところがあったからです。


また「熱狂的」な
「長嶋茂雄」ファンとして有名で
1974年10月14日の「長嶋茂雄引退試合」
後楽園球場で観戦していました。


このような【落合博満】
「凄さ」
数字で振り返ります。

プロ野球
【落合博満】は「名選手で名監督」でした

2、プロフィール


(1)プロ入り前

1953年12月9日:秋田県男鹿市生まれ
(旧、秋田郡若美町)


1969年4月:秋田工業高校入学
野球部入部、
入退部を繰り返すが常に4番打者


1972年4月:東洋大学入学 
野球部入部 
半年で中退、野球部も退部


・秋田に戻りプロボウラーを目指す


1974年:東芝・府中工場へ
臨時工として入社 
野球部入部


1976年:主力選手として、
東芝・府中工場野球部を
初の都市対抗野球出場に導く


1977年:日本通運の補強選手として
都市対抗野球に出場


1978年:電電東京の補強選手として
都市対抗野球に出場


・ドラフト会議で
ロッテオリオンズにドラフト3位指名

(2)ロッテ時代



1979年:1軍の経験をするが、
打撃フォームが固まらず
試行錯誤の結果「我流」の
打撃フォームを固める


1980年:5試合連続ホームランの
イースタン記録を作る


・2シーズン制だったこの年の後期に
二塁手、三塁手としてスタメン出場す


・ジュニアオールスター戦に出場


・近鉄バファローズとのプレーオフに出場


1981年:開幕からスタメン出場
       

・6月に4番に抜擢

       
・オールスター戦初出場

       
初の首位打者を獲得


1982年:2年連続の首位打者、
初のホームラン王
初の打点王を獲得し
初の「三冠王」を獲得


1983年:3年連続の首位打者獲得


1985年:2度目の「三冠王」を獲得


1986年:2年連続3度目の
「三冠王」を獲得


・シーズンオフ「有藤道世」が 
ロッテオリオンズ監督を
引き受ける条件に
【落合博満】をトレードで出す
というのがあり
中日ドラゴンズドラゴンズとの
間で1対4の
(牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂)
世紀のトレードが成立


・日本人初の1億円プレーヤーになる


(3)中日時代



1987年:「三冠王」を公言し、
シーズンインしたが
打撃3部門のタイトルはなし


1988年:出塁率と長打率はセ・リーグ1位で
優勝に貢献するも
打率はレギュラー定着後初めて3割を切る


1989年:セ・リーグで初の打点王を獲得し
史上初の両リーグ打点王


・8/12ナゴヤ球場での巨人戦で
9回裏ワンアウトまで
ノーヒットノーランを
続けていた「斎藤雅樹」から
逆転サヨナラ3ランホームランを打った


1990年:350号ホームランを
史上最速の1257試合で記録


・ホームラン王と打点王を獲得


1991年:年棒を不服として調停申請


・ホームラン王獲得


・ヤクルトスワローズの「古田敦也」と
首位打者争いをしていたため最終戦で
勝負をされず、
1試合6四球の日本記録を作る


1992年:プロ野球選手会を脱退


・打撃タイトルなし


1993年:5/7の横浜ベイスターズ戦で
史上初の両リーグ200号ホームランを
達成

       
・シーズンオフ、
フリーエージェントで巨人へ




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(4)巨人時代



1994年:けがから不調になるも
「国民的行事、10.8決戦」でホームランを
打ち勝利に貢献


1995年:通算2000本安打を
記録するが「名球会」入りを辞退


1996年:史上7人目の
通算500号ホームラン
史上7人目の通算1500打点を記録


・シーズンオフ、
日本ハムファイターズへ移籍

(5)日本ハム時代



1997年:両リーグ1000本安打を記録
怪我のため不調に終わる


1998年:現役引退

(6)中日監督時代



2003年10月8日:中日の監督に就任


2004年:シーズン前に
「補強の凍結と選手の10%底上げで日本一」
を宣言し、セリーグ優勝するも
日本シリーズは西武ライオンズに3勝4敗で
日本一ならず


2005年:セリーグ2位


2006年:セリーグ優勝するも、
日本シリーズで
北海道日本ハムファイターズに1勝4敗で
日本一ならず


2007年:セリーグ2位だったが、
この年スタートの
「クライマックスシリーズ」
で勝ち上がり
日本シリーズでは日
本ハムに4勝1敗として
53年ぶり2度目の日本一になる。

第5戦は
「山井・岩瀬パーフェクトリレー」
で勝つも「落合采配」に賛否両論


2008年:セリーグ3位に終わる


2009年:セリーグ2位に終わる


2010年:セリーグ優勝も、
日本シリーズで
千葉ロッテマリーンズに2勝4敗1分け
で敗れる


2011年:野球殿堂・競技者表彰に選出
セリーグ優勝、球団初の連覇も
日本シリーズで
福岡ソフトバンクホークスに
3勝4敗で敗れる


・最優秀賞監督賞受賞


・11/20監督退任

野球
【落合博満】は「熱狂的」な
「長嶋茂雄」ファンとして有名



3、選手成績


落合博満選手成績







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4、監督成績


落合博満監督成績



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松井秀喜の【プロフィール、選手成績、語録】を紹介!

東京ドーム

最終更新日 2023年10月30日


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1、はじめに


日米のスーパースター【松井秀喜】


少年時代から「素質」がありましたが
色々な人との出会い
本人のターニングポイントでの決断があり
スーパースターの花が開きました。


その中でも日本のスーパースター
【長嶋茂雄】との出会いが
その後の「野球人生」を大きく変えました。


【松井秀喜】は自らの
「引退会見」で言っていましたが
プロ野球生活の中で一番の思い出は
「1000日計画」から始まった
【長嶋茂雄】との「素振り」
答えていました。


それほどまでに「濃い練習」をして
「濃い師弟関係」ができた事で
素晴らしい実績を残す事ができました。


そのような【松井秀喜】
プロフィール、選手成績、語録を紹介します。




野球
1974年:石川県に生まれる

2、松井秀喜のプロフィール


(1)プロ入り前

1974年:石川県に生まれる


小学校時代:柔道、相撲で活躍

小学5年生から「本格的」に野球を始める

この頃からプロ野球にあこがれる


中学校時代:入学時に「野球」か「柔道」で悩むが
野球部に入部

捕手、投手を経験する

バッティングでは「130m」の飛距離
ボール(軟球)を割ってしまう程の力強さ

メジャーにあこがれ始める


高校時代:星稜高校入学

高校2年の夏の選手権で甲子園初ホームラン

高校3年の選抜では「2打席連続ホームラン」

「1試合7打点」
「2試合連続ホームラン」の成績を残す

高校3年の選手権の「明徳義塾」戦で
5打席連続敬遠を受ける


ドラフト会議:1992年の「ドラフト会議の超目玉」として
注目を集める

本人の希望球団は
「阪神タイガース」
「中日ドラゴンズ」
「読売巨人軍」
「福岡ダイエーホークス」で
これ以外ならば「大学進学」と公言する

上記4球団が指名し、
競合の結果「巨人」が交渉権を獲得し
入団決定

(2)巨人入団




1993年:キャンプでは注目を集めたが
オープン戦でプロの洗礼を受け2軍スタート


5/1ヤクルト戦でスタメンで1軍デビュー


5/2プロ入り初ホームラン


セ・リーグ高卒ルーキー新記録の
年間11本のホームラン


1994年:4月に初めての「月間MVP」
初の年間20本のホームラン


1995年初のベストナインを受賞


1996年:初の開幕4番、セリーグMVP受賞
史上最短(当時)の1億円選手


1997年:4/27広島戦で
通算100号ホームランを記録


1998年:7/28ヤクルト戦で
通算150号ホームランを記録

初のホームラン王、
打点王、
最高出塁率のタイトル


1999年:9/21阪神戦で
通算200号ホームランを記録

自己最多の年間42本のホームラン

連続フルイニング出場が
574試合でストップ


2000年:開幕から全試合4番に座る

7/12広島戦で通算1000本安打を記録

ホームラン王、
打点王、
最高出塁率のタイトル

     
セ・リーグMVP、
日本シリーズMVP

     
ゴールデングラブ賞
正力松太郎賞受賞

石川県県民栄誉賞受賞


2001年:4/12中日戦で1000試合出場
通算250号ホームランを記録

初の首位打者のタイトル


2002年:4/13FA権取得

7/9広島戦で
通算300号ホームランを記録

自己最多の
シーズン50ホームランを記録

ホームラン王、
打点王、
最高出塁率のタイトル

FA権を行使しメジャーに挑戦






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(3)夢のメジャーへ




2003年:1/4「ニューヨーク・ジャイアンツ」
入団会見

3/31開幕戦のブルージェイスで
初打席、初安打、初打点を記録

4/8の本拠地開幕戦で
初ホームランを満塁ホームラン

4/12初のサヨナラヒット

7/17初のサヨナラホームラン

オールスター戦出場、
スタメンで1安打を放つ

ワールドシリーズで
日本人の初ホームラン


2004年:東京ドームでデビルレイズとの
開幕戦

4/24レッドソックス戦で
日米通算350号ホームラン

2年連続オールスター戦出場

7/15日米通算1500試合出場


2005年:7/28メジャーデビューから
425試合連続出場の新記録

9/8日米通算400号ホームラン


2006年:4/18メジャーデビューから
500試合連続出場

巨人時代から続いた連続出場がけがのため
1768試合でストップ


2007年2月著書「不動心」
(新潮新書)ベストセラー

5/6マリナーズ戦で
日米通算2000本安打達成

8/5ロイヤルズ戦で
メジャー通算100号ホームラン


2008年:3/26結婚


2009年:5/27レンジャーズ戦で
日米通算450号ホームラン

ワールドシリーズMVP獲得

ロスアンゼルス・エンジェルスに移籍


2010年:4/26インディアンス戦で
メジャー通算1000本安打

6/26ロッキーズ戦で
メジャー通算150号ホームラン

オークランド・アスレチックスに移籍


2011年:4/3マリナーズ戦で
日米通算2500安打達成

7/20タイガース戦で
日米通算500号ホームラン達成


2012年:4/30タンパベイ・レイズと
マイナー契約

5/29メジャーに昇格

8/1自由契約

12/27ニューヨークで引退会見


2013年:5/5東京ドームで
「国民栄誉賞授賞式」と
引退セレモニー

野球
2003年:1/4
「ニューヨーク・ジャイアンツ」
入団会見

3、選手成績


年度所属打率本塁打打点
1993巨人.2231127
1994巨人.2942066
1995巨人.2832280
1996巨人.3143899
1997巨人.29837103
1998巨人.29234100
1999巨人.3044295
2000巨人.31642108
2001巨人.33336104
2002巨人.32450107
日本通算.304332889
2003ヤンキース.28716106
2004ヤンキース.29831108
2005ヤンキース.30523116
2006ヤンキース.302829
2007ヤンキース.28525103
2008ヤンキース.294945
2009ヤンキース.2742890
2010エンジェルス.2742184
2011アスレチックス.2511272
2012レイズ.14727
メジャー通算.282175760
日米通算.2935071649
選手成績








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4、おわりに



【松井秀喜】
プロフィール、選手成績、
を紹介しました。


あらためて、
獲得タイトルの多さ、
記録ずくめで【松井秀喜】
凄さを感じました。


その凄さは、
本人の努力はもちろんですが、
【長嶋茂雄】との出会いがあったことが、
大きかったと思います。


日本だけでなく、メジャーでも
大活躍の【松井秀喜】は日本の誇りです。


可能であれば、
第二の【松井秀喜】を育ててほしいです。





最後まで読んで頂きありがとうございます。



参考資料=Weblio辞書
    =nipponbaseball.web









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中日ドラゴンズ名選手列伝【元祖ミスタードラゴンズ・高木守道】

野球

最終更新日 2023年10月30日






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1、はじめに


若いプロ野球ファンには、
馴染みがないかもしれませんが、
オールドファンには、
懐かしくよく知っている人物です。


現役時代は、
職人技・いぶし銀」などと称され、
無口な性格から
むっつり右門」とも呼ばれ、
中日ドラゴンズを常に
引っ張ってきたところから
「ミスタードラゴンズ」
言われていました。


色々な思い出があるので、
どうしても私が伝えたい事、
残したい事を書きます。

野球
元祖ミスタードラゴンズ
高木守道

2、中日20年ぶりのセ・リーグ優勝

1974年(昭和49年)中日ドラゴンズは、
1954年(昭和29年)以来の
20年ぶりの優勝をしました


与那嶺要監督の下、チームが一丸となり
粘りの野球でペナントレースの終盤には、
連夜の逆転勝ち、サヨナラ勝ちで
「ミラクルドラゴンズ」と言われ、
読売巨人軍の10連覇を阻止しました。


もちろん一番の立役者は
「高木守道」です。


一番印象に残っているのは、
残り3試合で迎えた
神宮球場でのヤクルトスワローズ戦で、
1点差で
敗戦濃厚だった
9回表2アウトランナー3塁で出た
三・遊間への同点タイムリー
です。


この試合の勢いで
中日球場での
大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)
とのダブルヘッダーに連勝して
悲願の20年ぶりの優勝となりました。


ただこの年は、
「ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄」
引退で、
話題はこちらが中心でした。


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3、けがに泣いた現役時代

今でも悔やまれるのが、
1968年巨人の堀内恒夫から受けた
顔面へのデッドボールです。


前年まで、
3割を二度記録するなど
バッティングの調子が上がってきた
矢先の出来事でした。


このデッドボールが影響し、
打つときに一歩踏み出す事ができず、
何年もフォームが固まらず
低迷していました。


それゆえ、
このデッドボールがなければ
もっと成績が残せたのに
と悔やむ声をよく聞きました。


また、けがといえば、
初の日本シリーズで、
サヨナラヒットを打ったり、
先頭打者ホームランを打つなど
大活躍だったのに
自打球を当て負傷し、
その後の試合にも大きく影響したのが、
日本一なれなかった原因の一つでした。

野球
元祖バックトス高木守道

3、監督時代


監督時代は、
優勝はありませんでしたが、
何と言っても「10.8ナゴヤ決戦」
長嶋茂雄をして「国民的行事」と言わしめた
同率で最終戦を迎え、
勝ったチームが優勝という
過酷な試合が、記憶に残っています。

結局「長嶋・巨人」が優勝し
ここでも主役になれず、
「いぶし銀」のイメージのままで
終わりました。

4、現役時代のエピソード


無口な「高木守道」ですが、
あの「星野仙一」俺より
気が短いと言わしめたのが
「高木守道」
です。


試合中に、
頭にきて家に帰ってしまったことが
ありました。


また、
「星野仙一」を叱ることができたのも
「高木守道」
だけだったと言われています。


「高木守道」と言えば
元祖・バックトス」ですが、
誕生までには、
ひたすらフェンス目掛けて
バックトス」の練習をしました。


守備に対するこだわりもあり、
「長嶋茂雄」
簡単なゴロを難しく取るのに対して、
「高木守道」難しいゴロを
簡単に取ると言われました。






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5、おわりに


中日ファンならだれもが歌う
「燃えよドラゴンズ」
その歌が誕生したのが1974年です。


その一番最初の歌詞が
「一番・高木が塁に出て」です。


そうなんです
「背番号1の高木守道」が一番なのです。


その現役時代の姿が頭に浮かんできます。


私のつたない文章では、
すごさが伝わらないかもしれんませんが、
常に「打倒・巨人」を目指し、
中日の一時代を築いた
「攻・走・守」三拍子揃った選手。


特に自分の名前である「」は
本当にしびれさせてくれました。


二塁手では、
今でも日本プロ野球でNO1
だと思っています。


目立たないけれど、
すごい選手が中日ドラゴンズにいたことを
忘れないでください。



「1回の裏中日ドラゴンズの攻撃は
1番セカンド高木守道・背番号1」





2020年1月17日
「元祖ミスタードラゴンズ・
高木守道」
急死のニュースを知り、
大変ショックを受けました。

いつかはこの日が来ると
分かっていても悲しいです。


さびしいです。


感動をありがとうございました。


ご冥福をお祈りいたします。





高木守道・略歴

1960年:県立岐阜商業より
中日ドラゴンズに入団

1963年:盗塁王

1965年:盗塁王 初の3割

1966年:2年連続3割

1973年:盗塁王

1974年:20年ぶりのセ・リーグ優勝に
     貢献

1979年:3度目の3割

1980年:現役引退

通算成績:2282試合 2274安打 
     236本塁打 813打点
     369盗塁 打率.272 

ベストナイン:7回
(2リーグ分裂後の二塁手では最多)

ゴールデングラブ賞:3回
 
1992年~1995年:第一期監督

2012年~2013年:第二期監督

監督の成績:719試合 354勝344敗21分け
      勝率.507
(略歴の参考資料:2020年1月18日付・中日新聞)




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