最終更新日 2024年8月31日
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1、はじめに
【木俣達彦】は、
V9時代の強い「読売巨人軍」に
真っ向勝負で挑んだ「中日ドラゴンズ」の
正捕手です。
「野村克也」という
偉大な捕手がいましたが、
当時としては珍しい
「打てる捕手」でした。
そのバッティングは
「マサカリ打法」として、
ヒットを量産しました。
また、日本の野球選手として
「トレーニング方法、器具、健康管理」
を熱心に研究した草分け的な存在で、
「野球博士」とも呼ばれていました。
そんな【木俣達彦】
について紹介します。
知らない方も多いかと思いますが、
「中日ドラゴンズ」歴代NO1で、
当時はセ・リーグでもNO1の
キャッチャーを頭の片隅にでも
ぜひ入れて下さい。
2、6番木俣が流し打ち
1974年(昭和49年)
中日ドラゴンズが
読売巨人軍と激しい首位争いを
しているときに、
名古屋の放送局に
山本正之が
作詞、作曲し、自らが歌う
「元祖、燃えよドラゴンズ」の
テープが送られてきました。
この歌を聞いた時「衝撃」を
受けました。
リズムや歌詞、歌声が新鮮でした。
この歌が中日の20年ぶりの
セ・リーグ優勝の
後押しになったと私は思いました。
この歌で【木俣達彦】は
「6番木俣が流し打ち」と
歌われています。
元来【木俣達彦】は、
「プルヒッター(引っ張り専門)」で、
レフト方向の打球が多い選手でした。
さらに、
プロ野球選手としては
「足が遅かった」ので、
三遊間、二遊間の深い所へ行った打球が
内野安打にならないケースが多く、
打率を残せませんでした。
それが1974年頃から、
ライト方向への打球が増え、
打率を残せるようになりました。
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3、マサカリパンチと野球博士
(1)【木俣達彦】といえば
「マサカリパンチ」です。
マサカリとは:大型の斧のことで、
材木の伐採などに使われます。
バッターボックスに入るときに、
バットを担いで打席に入る姿や
バットを「マサカリ」のように
振り下ろす姿が、
童話の「金太郎」のように
見えることからつけられました。
技術的には、
ボールを上から叩ける
ように一本足で、
グリップをいったん下げ
トップの位置へ持ってくる
独特な打撃フォームです。
(2)野球博士
【木俣達彦】はトレーニングや器具、
健康管理に惜しまず投資したので、
「野球博士」といわれていました。
自宅にトレーニングルームを作り、
バッティングマシン、
トレーニング器具を
取り揃え、
常にトレーニング方法を
研究していました。
また、キャッチャーマスクに
のどをガードする
「スロートガード」を
最初につけました。
健康管理にも注意していましたが、
その中で、
具体的にどんな療法か知りませんが、
【木俣達彦】が行っていた
「へその緒療法」という
言葉だけが頭に残っています。
4、印象に残っていること
1974年10月12日、
中日20年ぶりの優勝の瞬間、
胴上げ投手の「星野仙一」に
【木俣達彦】が飛びつきました。
当時の優勝の瞬間といえば、
ピッチャーがキャッチャーに
飛びつくのが一般的でしたが、
【木俣達彦】が嬉しさのあまり
「星野仙一」に飛びついた
ことが、
【木俣達彦】の憎めない性格が
あらわれているようで
微笑ましかったです。
事実、年下の「星野仙一」からも
親しみを込めて「キーちゃん」と
呼ばれていました。
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5、おわりに
いかがでしたか?
【木俣達彦】の紹介をしました。
「マサカリパンチ」
という豪快な打撃の反面
「野球博士」と呼ばれるほど
トレーニング、器具、健康に
気を使うという両極端が
【木俣達彦】の
魅力ではないでしょうか。
そんな【木俣達彦】は、
中日ドラゴンズ球団史に
名を残すキャッチャーだと私は思います。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
参考資料:ウィキペディア