最終更新日 2024年9月14日
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1、はじめに
【鈴木孝政】は高校時代、
甲子園の出場がないので、
中央では無名に近い投手でした。
しかし、
千葉県では【鈴木孝政】が投げる試合は
球場が満員になるほどの注目度でした。
【中日ドラゴンズ】入団後も、
快速球を武器に
抑えのエースとして大活躍しました。
抑えとして、
リリーフなのに3年連続で「規定投球回数」を
記録するほどの酷使がたたり、
肘を故障してしまい、
快速球が投げられなくなり、
「ボールの緩急」で
勝負する投手になり、
抑えから先発に回り、
コンスタントに成績を残すように
なりました。
そんな【鈴木孝政】の輝きと苦悩を
プロフィールと投手成績で
紹介します。
ぜひ「話題のタネ」にして下さい。
2、鈴木孝政のプロフィール
1954年7月3日:千葉県山武市生まれ
1970年4月:千葉県立成東高校入学
野球部に入部し、1年からエース
1971年:夏の選手権、東関東大会の
準決勝敗退
1972年:春の関東大会、決勝で敗れる
1972年11月21日:ドラフト会議で
中日に1位指名され入団
1973年4月19日:川崎球場の
大洋戦で初登板
1974年8月7日:中日球場の巨人戦で
プロ初勝利
1974年8月18日:中日球場の阪神戦で
プロ初セーブ
1975年:最多セーブ投手賞受賞
1976年9月14日:ナゴヤ球場の大洋戦で
プロ初完投勝利
1976年:最優秀防御率賞受賞
最優秀救援投手賞受賞
1977年:自己最多の18勝を記録
最優秀救援投手賞受賞
1982年7月1日:ナゴヤ球場の巨人戦で
プロ初完封勝利
1983年8月19日:ナゴヤ球場の阪神戦で
プロ通算1000投球回数達成
1984年:カムバック賞受賞
1986年4月12日:ナゴヤ球場のヤクルト戦で
プロ通算100勝達成
1986年8月15日:ナゴヤ球場の阪神戦で
プロ通算1500投球回達成
1986年9月5日:ナゴヤ球場の阪神戦で
プロ通算500試合登板
1989年7月21日:浜松球場のヤクルト戦で
ラリー・パリッシュから
プロ通算1000奪三振達成
1989年:現役引退
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3、投手成績
年度 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 奪三振 | 防御率 |
1973 | 中日 | 0 | 0 | なし | 0 | 0.00 |
1974 | 中日 | 4 | 2 | 2 | 53 | 3.52 |
1975 | 中日 | 9 | 8 | 21 | 117 | 2.98 |
1976 | 中日 | 7 | 8 | 26 | 118 | 2.98 |
1977 | 中日 | 18 | 9 | 9 | 131 | 3.76 |
1978 | 中日 | 10 | 3 | 9 | 46 | 2.09 |
1979 | 中日 | 1 | 0 | 9 | 33 | 3.00 |
1980 | 中日 | 4 | 3 | 12 | 36 | 2.73 |
1981 | 中日 | 6 | 8 | 8 | 43 | 3.20 |
1982 | 中日 | 9 | 7 | 0 | 56 | 3.11 |
1983 | 中日 | 7 | 4 | 0 | 48 | 3.65 |
1984 | 中日 | 16 | 8 | 0 | 60 | 4.07 |
1985 | 中日 | 8 | 12 | 0 | 66 | 4.15 |
1986 | 中日 | 9 | 9 | 0 | 78 | 3.15 |
1987 | 中日 | 9 | 6 | 0 | 60 | 4.50 |
1988 | 中日 | 4 | 3 | 0 | 34 | 3.13 |
1989 | 中日 | 3 | 4 | 0 | 27 | 4.72 |
通算 | 17年 | 124 | 94 | 96 | 1006 | 3.49 |
4、おわりに
1972のドラフト会議で【中日】は
直前まで、
中日スポーツでも紹介されていた
この年の目玉の一人
選抜優勝の日大桜丘のエース
「ジャンボ・仲根正広」を
指名する予定でした。
しかし、直前のミーテイングで
「伝説のスカウト・法元英明」の
熱弁にうたれた監督代理で出席した
「近藤貞夫コーチ」が
【鈴木孝政】の指名を決断したと
いわれています。
この時の決断が正しかったかどうかは
わかりませんが、
確実にいえることは、
【鈴木孝政】が【中日】の球団史に
名を残し、記憶にも残る
「名投手」ということです。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
参考資料:ウィキペディア
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