最終更新日 2024年9月4日
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1、はじめに
今では、
数少ない「アンダースロー」の投手。
その「アンダースロー」の投手として
活躍し、
記憶に残っている投手が
今回紹介する【三沢淳】です。
ドラフト会議で「中日ドラゴンズ」から
指名されたのを拒否し、
社会人に進んだ【三沢淳】を
伝説のスカウト「法元英明」が
粘り強く交渉し、
1年後に入団にこぎつけました。
「中日」としては、何が何でも
入団させたかった【三沢淳】の
プロフィールと投手成績を
紹介します。
これで「中日」が入団させたかった
理由がよくわかります。
ぜひ参考にして頂き、
「話題のタネ」にして下さい。
2、三沢淳のプロフィール
1952年10月1日:島根県浜田市生まれ
1968年4月:島根県立江津工業高校入学
1970年春:選抜出場も初戦敗退
1970年夏:選手権は初戦突破も、
2回戦で後のチームメートとなる
東邦の水谷啓昭に抑えられて敗退
1970年11月19日:中日ドラゴンズから
3位指名も入団拒否
1971年4月:社会人野球の強豪
新日鉄広畑野球部に入部
1971年夏:都市対抗野球で優勝
小野賞を受賞
(大会で素晴らしい活躍をした選手、
監督、チームが選出される特別賞)
1971年秋:アジア野球選手権の
日本代表に選出され準優勝に貢献
1971年11月:中日入団
1972年4月16日:中日球場の巨人戦で
リリーフで初登板し、プロ初勝利
1973年4月28日:中日球場の巨人戦で、
先発初勝利・初完投勝利
1973年9月27日:大洋戦で初完封勝利
1973年:初の2ケタ勝利(10勝)
1974年:2年連続2ケタ勝利の11勝を
上げ「中日」20年ぶりのセ・リーグ優勝に
貢献
セ・リーグ最多与死球
1975年:3年連続2ケタ勝利
(自己最多の13勝)
1976年10月11日:ナゴヤ球場の広島戦で
初セーブ
1976年: セ・リーグ最多与死球
1978年:1975年以来の2ケタ勝利
1979年:自己最多タイの13勝で
2年連続2ケタ勝利
1981年:後楽園球場の巨人戦で
初の開幕投手
1983年8月11日:ナゴヤ球場のヤクルト戦で
プロ通算100勝を達成
1984年:日本ハムにトレード
1985年10月16日:藤井寺球場の近鉄戦で
プロ通算500試合登板達成
1986年:現役引退
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3、投手成績
年度 | 球団 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 奪三振 | 防御率 |
1972 | 中日 | 3 | 5 | なし | 44 | 3.67 |
1973 | 中日 | 10 | 8 | なし | 87 | 2.56 |
1974 | 中日 | 11 | 9 | 0 | 90 | 3.45 |
1975 | 中日 | 13 | 7 | 0 | 89 | 3.21 |
1976 | 中日 | 9 | 12 | 1 | 74 | 5.34 |
1977 | 中日 | 4 | 4 | 1 | 49 | 5.12 |
1978 | 中日 | 12 | 9 | 1 | 90 | 3.40 |
1979 | 中日 | 13 | 11 | 0 | 97 | 3.72 |
1980 | 中日 | 8 | 12 | 0 | 81 | 4.09 |
1981 | 中日 | 7 | 10 | 2 | 69 | 3.35 |
1982 | 中日 | 8 | 7 | 0 | 74 | 3.56 |
1983 | 中日 | 4 | 8 | 0 | 39 | 5.77 |
1984 | 中日 | 3 | 3 | 1 | 16 | 5.95 |
1985 | 日ハム | 1 | 0 | 0 | 12 | 2.06 |
1986 | 日ハム | 1 | 1 | 0 | 3 | 1.04 |
通算 | 15年 | 107 | 106 | 6 | 914 | 3.81 |
*セーブは1974年から表彰
4、おわりに
【三沢淳】のプロフィールと投手成績を
紹介しました。
最後にとっておきのエピソードを
紹介します。
【三沢淳】の「中日入団」が決まった時の
中日新聞本社は、ハチの子をつついたような
大騒ぎで喜んだそうです。
この時点で印刷が終わって出荷寸前の
「1972年のドラゴンズカレンダー」を
急遽【三沢淳】の入った物に
変更したそうで、
その期待度の大きさを
物語るエピソードです。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
参考資料:ウィキペディア
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