【長嶋茂雄】の名言「もうひとりの長嶋をつくりたい」を話題のタネに!

最終更新日 2021年8月15日


目次

1、はじめに


2、長嶋監督の6年間

3、おわりに

4、関連記事

ホームラン

1、はじめに


「もうひとりの長嶋をつくりたい」


この名言は、
1980年9月初め頃の言葉です。

1975年に巨人の監督に就任し、
6年目のシーズンです。

1980年という年は、
結果的には「監督解任」になりますが、
この時点で既に、
裏で工作が行われていたかも
知れませんが、「監督解任」は
表に出ていませんでした。

したがってこの時点では、
これからの巨人のため、
日本プロ野球のために、
次のスーパースターである
「もうひとりの長嶋をつくる」ための
使命感に燃えていたと思います。

この名言が出た背景を
監督就任中の6年間の
出来事で探っていきます。

特に「4番・サード」をつくるための
努力を振り返りたいと思います。




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2、長嶋監督の6年間


(1)監督1年目(順位=最下位)

1974年10月14日現役引退すると、
休む間もなく、
11月21日には巨人の監督に
就任しました。

11月19日のドラフト会議では、
高校球界4天王の一人
「定岡正二」を指名しました。

後に【長嶋茂雄】の指導で
巨人の主力投手になりましたが、
この時点で人気は抜群でしたが、
実力は未知数でした。

監督1年目の1975年は、
コーチ陣を一新しましたが、
【長嶋茂雄】を筆頭に
「投、打、守」の主力が抜け
戦力は大幅にダウンしました。

特に「4番・サード・長嶋」
抜けた穴は大きく、
開幕当初は「富田勝」でしたが、
打棒が振るわず、
4月18日には、現役メジャーリーガーの
「デーブ・ジョンソン」を獲得し、
サードを守りましたが、
本職がセカンドのため、
守備の負担から打撃不振となり、
シーズンを通しての活躍が
出来ませんでした。

監督1年目は、
「4番・サード」の必要性を
痛感した年ではないでしょうか。


(2)監督2年目
(順位=セ・リーグ優勝、日本一ならず)

監督2年目の1975年の
ドラフト会議では、将来の主力
「篠塚利夫(和典)・中畑清・山本功児」
を獲得しました。

1976年のシーズンは打撃面で
日本ハムから獲得した
「張本勲」がシーズン通して3番で活躍、
4番「王貞治」との二人で、
【長嶋茂雄】の穴埋めができました。

また、守備面では
「張本」がレフトを守ることにより、
レフトのレギュラーだった
「高田繁」がサードにコンバートされ、
ダイヤモンドグラブ賞を獲得し、
守備面でも
【長嶋茂雄】の穴埋めができました。

チームとしては、
セ・リーグ優勝ができましたが、
【長嶋茂雄】の後釜という観点では、
一時しのぎの感が否めませんでした。


(3)監督3年目
(順位=セ・リーグ優勝、日本一ならず)

監督3年目の1976年の
ドラフト会議では、
将来の主力
「角三男(盈男)・松本匡史」を
獲得しました。

1977年のシーズンは、
圧倒的な強さでセ・リーグ2連覇。
しかし、日本シリーズではまたもや
阪急に敗れました。

内野手では、
ショートに「河埜和正」がレギュラーとして
台頭してきました。
また投手では、
ファンやマスコミの批判の中、
我慢して使い続けた
「新浦寿夫」が先発、抑えで
大活躍しました。

3番は張本、サードは高田
1年を通して活躍しました。


(4)監督4年目(順位=2位)

1977年のドラフト会議では、
不動の捕手となる
「山倉和博」を獲得しました。

1978年のシーズンは、
8月までは順調に首位を走っていました。

9月に入ると取りこぼしが多くなり、
結果後半勢いの出た
ヤクルトが優勝しました。

2位であったとはいえ、
巨人OBから采配に対する批判が
渦巻きました。
3番張本サード高田は順調でした。

1978年のシーズンオフには、
江川卓・空白の1日事件が発生しました。


(5)監督5年目(順位=5位)

前年の「江川事件」で、
ドラフト会議をボイコットしたため、
新人はドラフト外で獲得しましたが、
主力となったのは
「鹿取義隆」だけでした。

1979年のシーズンは、
「小林繁」が「江川」とのトレードで
阪神に移籍したことと、
主力選手の衰えが目立ち始めたことで、
戦力ダウンとなり、
セ・リーグ5位におわりました。

3番張本サード高田
出場機会が少なくなり始めました。


(6)監督6年目(順位=3位)

1979年のドラフト会議では、
将来の主役「岡崎郁」を獲得しました。

またこのオフには、
「シンデレラボーイ」と呼ばれる
巨人のV9時代を知らない18人の
若手有望選手が、
「地獄の伊東キャンプ」で
鍛え上げられました。

18人の選手は、
投手:江川、西本聖、角、藤城和明、鹿取、
赤嶺賢勇

捕手:山倉、笠間雄二

野手:中畑、淡口憲治、篠塚、松本、
平田薫、山本、中司得三、
河埜、中井康之、二宮至
でした。

【長嶋茂雄】の今後のチーム作りが
窺われる人選でした。

1980年のシーズンは、
「江川、西本、定岡」の投手陣の
頑張りがあったものの、
張本の抜けた穴、王の衰えなどで、
打撃陣は不調で、
何とか3位で終わることができました。

このため、3番、4番を打てる打者を
作ることが急務となりました。
また、サードは中畑がこの年1年間、
守り抜きましたが、
レギュラーをつかんだとまでは
言えませんでした。

この時点で来シーズンには、
「もうひとりの長嶋をつくる」
青写真ができていたと思いますが、
「突然の監督解任劇で実現できませんでした。




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3、おわりに


1975年から1980年の第一次長嶋政権は、
「4番サード」が抜けた
苦しい状況でのスタートでした。

監督として、選手のやり繰りに苦労し、
「常勝・巨人」の監督としては、
勝つことを采配の中心にしてきたため、
若手の成長が遅れてしまいました。

しかし、若手を育てることの必要性は、
【長嶋茂雄】が一番わかっていたはずです。

そんな中1979年のシーズンオフに行われた
「地獄の伊東キャンプ」は
若手を育てるための
本格的なスタートでした。

そのため1980年は、
若手を育てるための「我慢の采配」をして、
1981年には「もうひとりの長嶋つくる」
自信があったのではないでしょうか。

それが第一次長嶋政権では、
実現しませんでした。

しかし時を経て、第二次長嶋政権では、
「松井秀喜の1000日計画」
「もうひとりの長嶋をつくる」
ことができました。


最後まで読んで頂き有難うございます。

参考資料:ウィキペディア

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